原甫草のブログ

主にバイクやその他の趣味、あんまり中身はありません。

⑤海底に眠る海軍機たち。二式大艇編  ~海没処分の全容~

こんにちは。

日に日に寒さも増し、もうすっかり冬らしくなってしまいましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 

さて、中海に海没処分された二式大艇について、前回の記事で当時最年長で最も処分の様子に詳しい方から証言を頂き、また、調査にも一つの区切りが付きました。

akiyuki2119067018.hatenablog.com

 

今までの記事では断片的に証言を紹介していたので、少々分かりにくい部分があったかと思います。

ですので今回はそれらを一つにまとめてみようと思います。

急に「~である。」口調になりますが、気にしないでください。

 

 

 

①概要

二式大艇大日本帝国海軍所属の飛行艇である。

飛行艇としては当時世界最高の性能を誇る傑作機といわれ、終戦後に米軍が行った性能確認試験でも圧倒的な高性能を発揮し、アメリカ側を驚かせた。

本稿では機体の詳細なスペックや戦歴等は省略する(よく知らないから)が、大まかな機体の大きさは把握しておいてもらいたい。

全幅 38.00m
全長 28.13m
全高 9.15m

 

↓詳しくはここを。

二式飛行艇 - Wikipedia

二式大艇―精鋭、海軍飛行艇 (第二次世界大戦ブックス (94))

二式大艇―精鋭、海軍飛行艇 (第二次世界大戦ブックス (94))

 

 

当時の映像。

www.youtube.com

 

 

全タイプ合わせて合計で168機が製造された二式大艇だが、今現在現存しているのは鹿児島県の鹿屋航空基地資料館に野外展示されている一機のみである

 ↓これ。

 これは後述の終戦詫間に向かった作戦機3機のうちの1機である。米軍に引き渡された後、1979年に日本に帰ってきた。

 

 

 

 

 

では早速本題に入るがその前に、そもそも何故二式大艇が中海に来たのか説明しよう。

この件については日辻常雄氏(当時は海軍少佐)の「最後の飛行艇」という手記に書いてある。(現在確認しているものはこれが唯一)

最後の飛行艇―海軍飛行艇栄光の記録 (光人社NF文庫)

最後の飛行艇―海軍飛行艇栄光の記録 (光人社NF文庫)

 

 

 

 

前述の通り、合計で168機が生産された二式大艇だが、終戦後、連合国軍から機体の引き渡しが通達された段階作戦行動が可能であった機体は石川県の七尾基地に残っていた3機のみであったという。

 

昭和20年8月21日、その3機に詫間基地(香川県)への集結指示が下り3機は詫間へ向かった。

 

3機のうち2機は無事に詫間へとたどり着くことができたが、後始末で出発の遅れた1機(森中尉)は天候悪化と燃料の欠乏、エンジン不調のため中国山地が越えられず、やむなく当時飛行艇基地があった島根県宍道湖に着水を試みる。

しかし、戦後の混乱状態と視界不良から、宍道湖だと思って間違えて中海に着水してしまった、というのがこの機が中海にやってきた経緯である。

 

 混同しやすいので先に言っておくが、手記の著者である日辻少佐の機は無事に詫間へ到着しており、中海に着水した機の現場の様子についての記述は筆者の実体験ではなく、この機の機長である森中尉からの伝聞を元にしている。

 

 

 

 

②手記の記述

ここからは手記を一部抜粋しながら、この中海にやってきた二式大艇が処分されるまでの行動履歴を追っていきたいと思う。

 

中海に着水後から処分命令前までの様子は以下の通り。

「中ノ海ならば美保基地がある。801空の戦闘機隊もいるはずである。ここで燃料補給をしようとして陸図をたよりに水上滑走を続けたが、この辺一帯は遠浅で座礁してしまった。悪天候の夏の日は暮れるのも早い。夕闇迫るころ、やっと離礁し、機長は漁船を見つけて一人陸へあがり、美保基地へたどりついたが、終戦後の美保基地は荒涼たる風情で人影もまばら、補給機能も資材も分散しているため、燃料補給など支援できるすべもなく、湖上にポツンと浮かぶ大艇にもどって、その日はクルー一同、非常食を食べて艇内で一夜を明かしたのである。電信員が懸命に詫間との無線連絡を保ち、22日救援機派遣の情報をとらえ、一縷の望みをかけ、極力接岸に努め、安来市西方の湖上に投錨して夜明けを待った。頼みの無線も途絶えたまま、やむなく安来の郵便局に事情を説明して詫間本部との連絡に努めた。」

{最後の飛行艇 第十章:湖底に眠る二式大艇}より引用

この機は着水後、まず美保基地へ向かった。

現在の美保基地周辺。護岸工事と戦後の埋め立て工事で地形が変わっている。

現在埋め立てられている場所の元の水深は1m程度であり、非常に浅い。当時は近くに小さな舟溜りや漁港があった。

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国土地理院より引用

 

そして、当時「安来の郵便局」に立ち寄ったとされるがおそらく詫間へ電報を送るためだったのではないかと思われる。郵便局については昭和15年以前から現在に至るまで場所の変更は見られないので、手記中の郵便局とは現在の安来郵便局のことであろう。この時点で、手記の記述から処分場所は安来市周辺のある程度狭い範囲に絞ることができる。

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これが安来郵便局

 

また、引用文中の「陸図を頼りに~座礁してしまった。」という部分にもご注目頂きたい。この記述から、この機のクルーたちは中海の海図等を持っておらず、湖の正確な水深を把握できていなかったということが読み取れる。これは後に若干かかってくるので覚えておいてもらいたい。

 

 

 

そして翌日の8月22日、この機は再び飛ばす手段が尽きたと判断され、詫間基地にいた日辻少佐から森中尉へ次のような命令が下った。

「その機を飛ばせる手段は尽きた。大艇の機銃をおろし、搭載兵器は破壊し、機体は銃撃により処分したうえ陸行で帰隊せよ」

{最後の飛行艇 第十章:湖底に眠る二式大艇}より引用

 

 

この処分命令を受けてからの状況を森中尉は後に次のように語ったとされる。

「自責の念にかられ哀惜の情に耐えかねつつ、大艇の処分にかかった。付近は市街地を遠く離れ、沿岸の水田はすでに稲穂が黄ばんでおり、一見のどかな風情を呈していた。

まず機銃をおろし、無線機類を破壊した。一同海岸に整列して、ともに戦ってくれた愛機に対し最後の挙手の礼を送って訣別した。滂沱たる涙で顔はくしゃくしゃになった。以心伝心的に事情を知った付近の住民は、搭乗員の後方に集まって涙ながらに合掌していた。

機銃を岸に据え、まさに銃撃を開始しようとしたとき、今まで岸に平行に横腹を見せていた大艇は、風もないのにその向きを変えはじめたのである。(~中略~)

胸にこみあげる熱いものをぐっと抑えながら、漁船を借りて射手を乗せ、大艇の正横に位置させた。「許せよっ」と合掌しながら発射を命じた。

中ノ海に響きわたる銃声はあまりにも悲しかった。ほとんど撃ち尽くしたが、なかなか燃えなかった。

射手は悲壮だった。弾倉を交換しながら涙の射撃を続けなければならなかった。ついにタンクから火を噴いた。やがて胴体が爆発を起こし、紅蓮の炎に包まれながら静かに沈みはじめた。あの特徴のある高い尾翼をしばらくの間湖面に浮かべていたが、やがて聖者の最期を思わせるように水面から姿を没していった。

{最後の飛行艇 第十章:湖底に眠る二式大艇}より引用

 

その後、この機のクルー達は地元の人々に暖かく迎えられ、付近の民家で一泊したのち翌23日早朝、住民によって漁船で米子まで送られ、そのまま詫間まで帰還したとされている。

 

これらの手記の記述から分かるポイントとしては、

・処分が行われたのは沿岸に水田が広がる、安来市中心からは離れた場所。

・一部始終を付近の住民が多数目撃。

・漁船が度々登場することから付近の住民は漁船を持っている。

・機体は爆発、炎上しながら沈んだ。

 

また、手記ではこの機体について、「中ノ海の湖底深く永遠の眠りについた。

としていることから、筆者は深い湖の底に機体全体が完全に沈んでしまったと認識していたのであろう。

 

手記から分かることは以上である。

 

 

 

③3つの目撃証言

当時、機体処分の様子は多数の地元住民が目撃していたということである。

今回、幸運にも当時の海没処分を目撃したという方3人から証言を得ることができた。

本件は先ほど紹介した手記の他には一切の資料が残っていないため今現在、これらの証言が処分が行われた場所や、処分後の周辺の様子を伝える唯一のものである。

 

 

・証言者1人目:Aさん(当時6歳)

「私は安来の福井という所に住んでおりました。当時六歳でしたが、飛行艇のことは覚えています。遠くからでも高く黒煙が上がるのを見て湖岸に行きますと、大勢の人が集まっており、大きな飛行艇が燃えておりました岸から五十~百メートルほどありました。半ば沈んでいる状態でしたが、よく燃えておりました。機関銃は見ていません。大人たちが近くに行かせてくれませんでした。それでも顔が熱く、髪が燃えるような気がしました。近所の人が船で濡れた兵隊さんを助けていました。その方は、「黄色い汗が出とった。」と言っておりましたが、きっと油か何かをかぶられたのでしょう。しばらくは、飛行艇の部材でしょうか、生ゴムとスポンジのようなものがたくさん岸に上がりました。飛行艇は干潮の時には尾翼を出しておりました。

同じ部落の人で、飯梨川の砂を木造船で松江に運ぶ仕事をしておられる方がおられましたが、この尾翼に当たって船底に穴が開き、急いで引き返したという騒ぎもありました。二十五歳までこの地で農業をしておりましたが、引き揚げられたという話は聞いておりません。」

 この方が最初の証言者である。当時はまだ6歳だったとのことだが、機体が炎上していたということや、住民が船で隊員を手伝っていたなどの証言は手記と一致する。

 また、処分場所についても教えていただいた。

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現在の島根県赤江町、 国土交通省出雲河川事務所のすぐ近くである。

 

 

 

 

次の証言者はAさんの証言にもあった二式大艇に衝突したという船を所有していた家の方である。

・証言者2人目:Bさん(当時5歳)

飛行艇の件は知っておりますが、海没処分した時は幼くて記憶にありません。しかし、その後のことは多少覚えております。我が家は昭和の初め頃から、昭和50年頃まで生コン用の川砂を採取し、運搬、販売する仕事をしておりました。父は中国へ出征しており、戦後まもなく復員して参りました。その後家業の川砂の仕事を再開しましたが、父は二式飛行艇の事を知らず、川砂運搬中に船を垂直尾翼(?)に当ててしまいました。船の肋骨が2本折れ、3本目で止まりました。砂を積んでいたため浸水が激しく、農業用の川舟2艘に挟まれて何とか船着き場に戻りました。船は修理しましたが、再びこういうことがないように、尾翼が沈んでいる部分に櫓をたてました。岸から20~30mだったと思います。

しばらくして、二式飛行艇のフロートが打ち上げられ、岸辺に長い間放置されておりましたが、いつの間にか無くなりました。二式大艇亜鉛葺きの錨は、引き上げて我が家の船で使っておりました。これは、昭和50年頃廃業した際に、知人に譲渡してしまったため現在の所在は分かりません。その方の船も古くなり沈めてしまったそうです。櫓は朽ち果てたのか、今はありません。」

 二式大艇にぶつかったのは戦後1~2年後であったということ。この方はその後お父さんの後を継ぎ、同じ船を使って昭和50年頃まで砂の運搬の仕事をしていた。

また、ぶつかったのは垂直尾翼だったとの証言を頂いたが、よく覚えておらず確かではないとのこと。

また、その船がこれ。

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 いわゆる「ポンポン船」と呼ばれる発動機付きの木造船である。

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これがそのエンジン。

また、船の航路だが、

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このようなものだったのではないかと思われる。

 



・証言者3人目:Cさん(当時16歳)

「私は当時安来農高3年生、16歳。この出来事があったのは昭和20年8月22日でした。その日は学校が休みだったので家にいました。ふと中海を見ると、飛行艇がこちらへ向かって来ていました。台風で堤防が壊れて、家から見えたのです。4発の大きな飛行艇でした。翼の上に20人くらいの兵隊さんが立っていて「おーい」と声が聞こえました。驚いて海岸に行くと、「荷物を運びたいから船を出してくれ。」と言われました。大勢の人が集まり、近所に住んでるおじいさんがポンポン船を出しました。私もその船に乗って、飛行艇の中に入り、兵隊さんの荷物を下ろしたり、運んだりする手伝いをしました。荷物はおじいさんの家に預かってもらいました。飛行艇は堤防にある防風松にロープで係留し、錨も下ろしておりました。

荷物が揚がると、兵隊さんが松の木のあたりから機関銃で二式大艇を「ダダダーン、ダダダーン」と撃ち始めました。しばらくすると燃料に火が付き大きく燃え上がりました。係留していたロープや、錨のロープも燃えて切れました。機体は燃えながらこちらへ近づいて来たと思うと、河口で転覆して沈みました。浅かったので尾翼をはじめフロートなど、3分の1は水面上に出ておりました。機長さんが私に「尾翼の菊の御紋章を残しているのはまずいので、消しておいてくれ。」と頼まれました。

2,3日後、我が家の船を出して、鉞で尾翼を叩き壊して分からないようにしました。

終戦後なので色んな人が来ました。フロートは私と前の家の人が外して持って帰りました。錨も集落の人が引き揚げました。後にフロートはボートにするからと安来の人が持って帰りました。錨も安来の人が持って帰りました。

その後もしばらくは胴体と翼が水面上に出ていましたが、9月の初め頃に台風が来て全部見えなくなりました。ただ、その場所に行くと1mほど下に沈んでいるのが水面上から見えました。

ある日、プロペラの先が水面上に出ていて、Bさんの家の土砂運搬船が引っかかりました。戦争に行っておられたので二式大艇のことを知らなかったのです。私はその場を見ておりました。「おーい、頼むわ」と声をかけられたので、我が家の農耕船を出して、他の家の船と両側から挟んで、沈まないようにロープで縛りました。そして、安来港の造船所へ向かいました。

それから、昭和25年7月の25日の朝鮮動乱。内需拡大で鉄屑回収が盛んに行われました。25年の10月頃のある日、サルベージ船が来て全部引っかけて機体を持って帰りました。残骸も残っていません。このあたりではなく、他所から来た業者でした。

 また、あのとき船を出した隣のご夫婦の息子さんはフィリピンで戦死されています。この小さな集落で3人も戦死しました。二式大艇が沈んだときは、何ともいえない気持ちでした。」

 当時16歳であり、また処分場所に最も家が近かったということでこの方が最も事情に詳しい。機体の詳細な状況や、当時の住民のやり取りなども窺い知れる。

他の2人は引き揚げなどの話は知らないとのことであったが、この方は機体の引き上げを目撃している。調査当初はまだ湖底に機体があるかもしれないとの期待もあったが、この証言からおそらく大部分はもう無いであろう。

また、処分後に水面から出ていた機体の一部は尾翼ではなく、プロペラであったということである。

 

 

 

以上が、今回得られた証言である。

では次にこれらの情報と手記の記述、実際の地図などから処分の様子から引き揚げまでの様子を見てみよう。

 

 

 

昭和20年8月22日、島根県赤江町において二式大艇の銃撃処分が行われた。

安来市街からは車で10分程度の距離にあるが、家もまばらで町から遠いような印象を受ける、のどかな村である。

手記の記載通り、海岸沿いには現在でも水田がみられる。

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具体的な処分場所は海図の赤丸の部分。

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海上保安庁発行 W1174

付近の水深は浅く、4.6m程度しかない。全高が9.15mもある二式大艇を沈めるためには水深が浅く、不適格だ。なぜこの場所を選んだのかという話だが、手記の中でも述べられている通り、隊員達は陸図を頼りに中海を移動していたため、正確な現場の水深を知らなかったことが原因だと思われる。

 

またCさんの証言において、沿岸の松の木に飛行艇を係留したとされているが、現在、処分場所の近くには松が沿岸に向かって並んで生えている場所が確認できる。

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現在は途中で途切れてしまっているが、おそらく護岸工事が行われる前は沿岸まで伸びていたのではないか。

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実際にこの並木に沿って線を引くと先ほど証言のあった処分場所の範囲に入る。

断定はできないが、証言中の松の木がこの並木の先にあった可能性は高いだろう。

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googleマップより引用

 

 

そしてこの場所から銃撃を行った。

この時機体が向きを変えたため岸から撃つのを止めて漁船に乗り換え、そこから撃っている。しばらくすると燃料に引火し機体は爆発、炎上。

「顔が熱く、髪が焼けるようだった」という証言もあるので岸からはかなり近かったのではないだろうか。岸から20~50mといった具合だろう。

その後、機体はゆっくり岸に近づいてきた後、転覆して沈んだというがここで、証言と手記に大きく差異がみられる。

手記にはその日のうちに機体が尾翼まで完全に沈んだというように書かれている一方で、Cさんの証言では水深が浅かったため尾翼やフロートなど、機体の3分の1ほどは水面から出ていたとされている。

おそらく森中尉が日辻少佐に現場の様子を話した際に機体が完全に沈んだということにしてしまったのだろう。実際Cさんは機長から尾翼の菊の御紋章を壊すように頼まれ、処分の2日後に舟を出して鉞で尾翼を叩き壊している。

仕方がなかったとはいえ「沈まなかったから現地の少年に後は任せた」なんてことは上官に報告できないだろう。

 

 

証言によると機体が完全に沈んだのは9月に入ってから。台風の際に壊れて沈み、完全に見えなくなったとされている。ただ、現場に行くと1mほど下に沈んでいるのが見え、また干潮の際にはプロペラが水面から出ていたという。

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今の様子

そして終戦の翌年、もしくは翌々年、Bさんの家の船がそのプロペラにぶつかった。

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今でこそこの二式大艇処分の話は知る人が少ないが、当時は割と知られており、いろんな人が見にきたり、機体の残骸を持って帰ったりしていたようである。

そして昭和25年10月、どこからともなく話を聞きつけてやってきたサルページ船が機体を引っ掛けて回収していった。

 

以上がこの二式大艇の処分から回収までの流れである。

 

 

 

 

 

 

④最後に。

今回の調査では島根県中海に海没処分されたと言われていた二式大艇について、具体的な場所とその後の様子について知ることができた。

この海没処分は、手記を描いた日辻少佐や部隊の隊員達、そして処分現場である赤江町やその周辺に住む人々にとって敗戦の象徴のような出来事だったのだと思う。

機体は沈み、回収もされもう残ってはいないが、この出来事自体、あるいはこれに関わった人々の思いは歴史に埋もれ無かったことにしてはいけないと、そう思うばかりである。

              

                       ~おわり~

 

 

⑥海底に眠る海軍機たち。 隠岐編 ~美田湾の飛行艇~

こんにちは。

前回の記事では中海に海没処分された二式大艇について書きました。

akiyuki2119067018.hatenablog.com

 

結果的に機体は引き揚げられていたとのことで、少し残念でしたが、何より長い間詳細不明だったものが今回の調査ではっきりと分かって良かったと思います。

今後は得られた証言を歴史資料としてきちんとした形で残すということをやっていこうと思います。機体の有無以上に大切な作業です。

 

 

 

 さて、今回はまたその二式大艇とは別の話。

二式大艇についての証言を得る前、安来市立図書館にて資料を探していると「島根県歴史大年表」という本にこのような一文がありました。

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昭和20年8月17日、黒木村の美田湾という場所で飛行挺を機銃で銃撃処分した、と書いてあります。

見つけた当初は例の安来市二式大艇のことかと思いましたが、日付が異なることからそれとは別のものだと判断しました。

他の文献もいくつか見てみましたが、一切この件に関する記述がありません。

これも記録に残っていないパターンか・・・?

 

 

 

 

そもそも黒木村の美田湾とは........一体どこのことなのでしょう.....??

 黒木村という地名も美田湾という港もこの辺りでは聞いたことがありません。

 

 

 

 

 

 

 

 調査を進めていくと、島根県隠岐の島に「黒木」という地名が部分的に見られることがわかりました。

どうやら現在の「西ノ島町」という地区がかつての黒木村だったようです。

合併で地名が変わったのですね。

↓こちらを参照。

黒木村 - Wikipedia

 

 

 

そうなると美田湾というのは・・・

ここの事を言うのでしょう。「美田」という地名があります。

 

 

 

そして幸いにも美田湾の海図が手元にありました。

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                                                     (海上保安庁刊行 W116)

結構な部分が未測ですね。

湾内に険悪地の記号が見られないことからこの時点で、機体は未測領域にあるか、もしくは引き揚げられたということが予想できます。

 

 

 

 

さて、黒木村の美田湾の場所はわかりましたが、この飛行艇の詳細や当時の様子などは未だ一切不明です.....

隠岐の島に行こうにも......遠いです。そして結構フェリー代が高い。

時刻表 | 隠岐汽船株式会社

 

 

 

そこで資料を持っていそうな場所へ電話で問い合わせてみることに・・・

 西ノ島コミュニティ図書館「いかあ屋」という場所です。

「行こうよ」みたいな意味の方言ですね。

 

 

事情を説明し、資料がないか聞いてみました。

数時間後返事が返ってきて、

「残念ながらこちらに資料はありませんでした。しかし、当時一部始終の様子を見た。というおじいさんが近くにいらっしゃいます。」

 

 

ということでした。

なんと、(美田だけに)「実際見た。」という方がおられました!!

今回も運がいいです。話が早くて助かります。

その後、図書館を通じてその方と連絡を取ってみましたが、お話を聞かせていただけることになりました。後日伺う予定です。

 

 

 

また、「西ノ島 戦争」でGoogle検索をしたところ、このような動画が出てきました。

↓これです。

隠岐・西ノ島の戦中と戦後の記憶 - YouTube

 

この動画の冒頭部分に美田湾の飛行艇と思われる飛行艇の話が出てきます。

これによると戦争時、美田湾にいた飛行艇偵察機であるとのことで、終戦後しばらくして引き揚げられたとのこと。

機体についていた岩ガキをみんなで食べたという話がとても印象的ですね。

 

 

 

 

以上、今現在で分かっていることはこれだけです。

空襲もなく平和な島だったという隠岐の島ですが、それ故、戦時下の様子などの資料がとても少なく、今回の飛行艇が一体何という部隊の何という飛行機だったのか、他にも飛行艇はいたのか、どのような基地がおかれていたのかなど、不明な部分が多いです。

来春以降に隠岐の島に行こうと思っているのでその時にまた新たな情報があったらご紹介します。

隠岐には以前から一度行ってみたいと思っていたので、いい機会ですね。

 

 

 

                 ~続く~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

④海底に眠る海軍機たち。二式大艇編 ~引き揚げられた二式大艇~

こんにちは。

前回の記事では二式大艇にぶつかった船の話をご紹介しました。

akiyuki2119067018.hatenablog.com

 

 

そして前々回の記事で「この海没処分を目撃した現在90代の方がいる」というような事を書いていたと思いますが、

akiyuki2119067018.hatenablog.com

 今回はその方にお話を聞くことができました。

昭和4年生まれ、終戦時は16歳だったそうです。

先日証言のあった処分現場に最も近いところに住んでおられる方です。

今まで証言をしてくださった方の中でダントツで最年長の方ですね。

 

 

以下、伺った話の要約です。

 

 

「昭和20年8月22日、私は当時16歳でした。その日は学校が休みなので家にいました。ふと中海を見ると、二式大艇がこちらへ向かって来ていました。台風で堤防が壊れて、家から見えたんです。4発の大きな飛行艇でした。翼の上に20人くらいの兵隊さんが立っていて「おーい」という声が聞こえました。驚いて海岸に行くと、「荷物を運びたいから船を出してくれ。」と言われました。

大勢の人が集まり、近所に住むおじいさんがポンポン船を出しました。私も船に乗って、飛行艇の中に入って、兵隊さんの荷物を下ろしたり、運んだりする手伝いをしました。荷物はそのおじいさんの家に預かってもらいました。飛行艇は堤防にある防風松にロープで係留し、錨も下ろしておりました。

荷物が揚がると、兵隊さんが松の木のあたりから機関銃で二式大艇を「ダダダーン、ダダダーン」と撃ち始めました。燃料に火が付き大きく燃え上がりました。係留していたロープや、錨のロープも燃えて切れました。燃えながらこちらへ近づいて来たと思うと、河口で転覆して沈みました。浅かったので尾翼をはじめフロートなど、3分の1は水面上に出ておりました。

機長さんが私に「尾翼の菊の御紋章を残しているのはまずいので、消しておいてくれ。」と頼まれました。2、3日後、我が家の船を出して、鉞でたたき壊して分からないようにしました。

終戦後なので色んな人が来ました。フロートは私と前の家の人が外して持って帰りました。錨も集落の人が引き揚げました。後にフロートはボートにするからと安来の人が持って帰りました。錨も安来の人が持って帰りました。

 また、胴体と翼が水面上に出ていましたが、9月の初め頃に台風が来て全部見えなくなりました。ただ、その場所に行くと1mほど下に沈んでいるのが水面上から見えました。

ところが、プロペラの先が水面上に出ていて、土砂運搬船が引っかかりました。その方は戦争に行っておられたので二式大艇のことを知らなかったのです。私はその場を見ておりました。「おーい、頼むわ」と声をかけられたので、我が家の農耕船を出して、他の家の船と両側から挟んで、沈まないようにロープで縛りました。そして、安来港の造船所へ向かいました。

それから、昭和25年7月の25日の朝鮮動乱。内需拡大で鉄屑回収が盛んに行われました。

25年の10月頃、サルベージ船が来て全部引っかけて持って帰りました。残骸も残っていないでしょう。このあたりではなく、他所から来た業者でした。

船を出した隣のご夫婦の息子さんはフィリピンで戦死されています。この小さな集落で3人も戦死しました。二式大艇が沈んだときは、何ともいえない気持ちでした。」

 

 

 

 

 

 

 

 

いままで、この二式大艇が戦後に回収されたのかという話については、知らない、聞いたことがないという人しかおらず、回収があった。見た。という証言をされたのはこの方が最初にして唯一です。

機体の有無についてはこれではっきりと決着がついたのではないかと思います。

 

手記ではこの二式大艇はその日のうちに尾翼まですべて沈んだというように書いてありましたが、どうも2週間ほどは半分以上がまだ浮いていたそうです。

そして、台風で沈んだ後に、海面に出ていたのは尾翼ではなく、プロペラだったとのこと。前回の記事で紹介した船も、ぶつかったのはプロペラだったのですね。

 

 

 

 

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今回の証言でこの二式大艇の処分やその後の様子の全容が明らかになりました。

記事の内容が断片的なので読んでる方も整理がつきにくいかと思いますが、また近い内に一つにまとめたものを書こうと思います。

また、来春以降に地元の歴史研究会でさらに詳細にまとめた物を発表し、正式な歴史資料とする予定です。

現場のほうも、暖かくなったら泳いでみて、何か残留物がないか見てみようと思います。

 

 

 

               ~つづく~

 

 

タウンメイトのテールランプをLEDに変えてみた。

こんにちは。

秋も一段と深まり、日だまりの恋しい季節となりました。皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。(時候の挨拶)

 

 

 

 

 

タウンメイトに乗り始めて3ヶ月、レストア前はボロボロの車体でしたが今のところ特に故障もなく元気に走っています。

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本当に便利です。

 

 

 

 

 

 

 

早速本題に入ります。

この車両、元々6Vだったのを無理に12Vにしたせいかアイドリング時の灯火類がめちゃくちゃ暗いのです。特にテールランプ。

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写真でみるとまだマシに見えますが実際見るともっと暗いです。

これだけ暗ければ、後ろから追突されてもおかしくないのではないかと少し心配になります。

 

 

ちなみに同じ規格の電球を使っているベンリィは

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これだけ明るいです。

 

 

 

 

 

ということで、このテールランプを明るくするために色々考えた結果、電球をLEDに交換しようということになりました。

 

 

 

 

今回買ったのはこれです。

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900円でした。

 

この辺りで知っている人なら

 

「え?交流なのにそれ使えるの?」

 

と気になっているのではないかと思います。

そうです。カブやベンリィ、そしてこのタウンメイトなどの原付バイクの多くは発電量が少ないため、ヘッドライトやテールランプなどに交流電流が来ているのです。

テールランプはヘッドライトより複雑で、ポジションランプには交流が、ブレーキランプには直流が来ています。

 

通常はこれを全波化とかなんとかいう作業を行って直流に変換したりするのですが、

 

 

面倒なのでそのまま付けました。はい、光る。

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正常に動作しているようです。交流でも大丈夫そうですね。

 

 

 

 

明るくなりました。

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 これで追突されることもなさそうです。

 

 

 

 

 

 

テールランプが暗いとお困りの方、是非LED化をご検討してみてください。

 

 

                 ~完~ 

  

 

 

 

 

 

 

③海底に眠る海軍機たち。二式大艇編 ~尾翼にぶつかったポンポン船~

こんにちは。

前回の記事では得られた証言を元にして、二式大艇の海没処分場所をご紹介しました。

 

 

 ↓前回の記事

akiyuki2119067018.hatenablog.com

 

 

Twitterにて記事の宣伝をしたところ、多くの人にリツイートしていただき、普段と比べてめちゃくちゃアクセス数が増えました。

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二式大艇って結構みんな知っているんですね。

最近はゲームやアニメなども昔の兵器を題材としたものが割りと多いので、その影響もあるのかなと思います。

まぁ何であれ、多くの人に知っていただく事ができ、大変嬉しく思います。

 

 

 

 

 

 

さて前回、友人のおじいさんの証言において、「同じ部落の人の船が沈んだ二式大艇の尾翼にぶつかった」というものがありましたが、今回はその船の持ち主だった方からお話を聞くことができました。

 

 

 

今回お話をしてくださった方は二式大艇にぶつかった方の息子さんで、終戦時はまだ5歳だったそうです。

衝突事件は終戦から1~2年後の出来事であったということ。

 

 

以下、証言の要約です。

 

飛行艇の件は知っておりますが、海没処分した時は幼くて記憶にありません。しかし、その後のことは多少覚えております。我が家は昭和の初め頃から、昭和50年頃まで生コン用の川砂を採取し、運搬、販売する仕事をしておりました。父は中国へ出征しましたが、戦後まもなく復員して参りました。その後、家業の川砂の仕事を再開しましたが、父は二式飛行艇の事を知らず、川砂運搬中に船を垂直尾翼に当ててしまいました。船の肋骨が2本折れ、3本目で止まりました。砂を積んでいたため浸水が激しく、農業用の川舟2艘に挟まれて何とか船着き場に戻りました。船は修理しましたが、再びこういうことがないように、尾翼が沈んでいる部分に櫓をたてました。岸から20~30mだったと思います。

しばらくして、二式飛行艇のフロートが打ち上げられ、岸辺に長い間放置されておりましたが、いつの間にか無くなりました。亜鉛葺きの錨は、我が家の船に使っておりました。これは、昭和50年頃廃業した際に、知人に譲渡しました。その船も古くなり沈めてしまったそうです。

櫓は朽ち果て、今はありません。飛行挺を引き揚げたという話も聞いておりません。」

 

 

 

なかなかに興味深い内容です。

この方もまた、お父さんの後を継いで15年間ほどこの砂の運搬の仕事をしていたといいます。

仮に廃業したのが昭和50年だったとすると、その15年前の昭和35年、20歳の時に始めたということになりますね。まぁ大体16~20歳、終戦の10年後以降だと思います。

 

 

また、二式大艇の錨を引き揚げて自分の船で使っていたということですが、なんとまぁ・・・戦後も活躍していたんですね、二式大艇

ものすごい贅沢な話です。

おそらく櫓を作ったときに引き上げたのではないかと思いますが、詳しい入手過程は不明です。

最終的に錨は廃業時に船のエンジンと一緒に知人に売ってしまわれたそうで、もう誰に売ったかも覚えていらっしゃらず、行方が分らないとのこと・・・

ちなみに船はエンジン付きのいわゆる「ポンポン船」と呼ばれる木造船です。

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↓ちなみにこれがそのエンジンです。
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また当時、その木造船が通っていた航路は大体こんな感じ。

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             (Google mapより引用)

 

 

木造船なので真水が流れている村近くの川に船を停泊させていたようです。

 

おそらくそれがこの川です。

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また、尾翼の場所に目印のために立っていたという櫓ですが、今現在はありません。

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 朽ち果てて無くなったらしいです。気が付いたらもうなかったとのことですが、いつまでそれがあったのかは不明です。

また、潮が引くと出ていた尾翼も、いつのまにか無くなっていたそうです。

 

 

 

 

 

気になるのは「二式大艇はまだそこにあるのか?」というところですが、今のところ回収されたという証言もなく、かといって機体も出てきていないことからなんとも言えないという感じですね。

ここまで詳細に色々な事を知っていて近くを毎日船で通っていた今回の証言者の方が、かなりの規模になったであろう引き揚げ作業に気が付かず、知らないというのもなかなか考えにくいことのように思いますが...どうなんでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回、新たな証言が得られ、処分後の様子が少しずつ分かってきました。

また、今回もまた別の目撃者の方を紹介していただいたので、その方と連絡が取れればこれで証言者は3人になります。

どの方も快くお話を聞かせてくださりとても助かっております。

この件に関しては機体の有無に関わらず、きちんと詳細をまとめ、記録に残しておきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

                 ~続く~

 

 

 

 

②海底に眠る海軍機たち。二式大挺編 ~処分場所がついに判明~

こんにちは。

いよいよ秋も深まり夜寒を覚える今日この頃ですが、いかがお過ごしでしょうか。

 

前回の記事。

akiyuki2119067018.hatenablog.com

 

一式陸攻も。

akiyuki2119067018.hatenablog.com

 

前回の記事を書いた頃には、もう海で泳げるような気温でもなく、泳げたとしても例の険悪地を見る手段もありません。

なので今年の海水浴はもう辞めてその後は、興味を持ってくれそうな人にこの話を紹介してみたり、図書館に行って資料を探したり、サバゲーのイベントの見学に行ったりしていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

そういう流れで先日、小学校以来の友達と数年ぶりに連絡をとって一式陸攻の話をし、大変興味を持ってくれたので一緒に不時着現場を見て周ってきました。

彼も飛行機の不時着云々という話は初めて聞いたらしく、最初はびっくりしていましたね。

 

一通り現地を周って説明した後、「これから一緒に探そうぜ。」みたいなことを言ってその日は別れたのですが、さっそくその夜に彼から電話が掛かってきました。

どんな用件かと思えばなんと、

 

「さっき祖父に二式大挺の話をしたら、当時安来に住んでて、実際に銃撃処分を見てたって。」

 

と言うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんという偶然。

 

あまりに話が急だったので一瞬訳が分かりませんでした。

本当に世の中はどこがどこと繋がっているか分かりませんね。

なんて運がいいのでしょう。

 

 

 

 

 

という訳で後日、その友達のおじいさんの家を訪問し、正式にお話しを伺ってきました。

 

 以下、その時の話の要約です。

 

「当時は六歳でしたが、飛行艇のことは覚えています。遠くからでも高く黒煙が上がるのを見て、湖岸に行きますと、大勢の人が集まり、大きな飛行艇が燃えておりました。岸から五十~百メートルほどありました。半ば沈んでいる状態でしたが、よく燃えておりました。機関銃は見ていません。大人たちが近くに行かせてくれませんでした。それでも顔が熱く、髪が燃えるような気がしました。近所の人が船で濡れた兵隊さんを助けていました。その方は、「黄色い汗が出とった。」と言っておりましたが、きっと油か何かをかぶられたのでしょう。しばらくは、飛行艇の部材でしょうか、生ゴムとスポンジのようなものがたくさん岸に上がりました。飛行艇は干潮の時には尾翼を出しておりました。同じ部落の人で、飯梨川の砂を木造船で松江に運ぶ仕事をしておられる方がおられましたが、この尾翼に当たって船底に穴が開き、急いで引き返したという騒ぎもありました。その後、二十五歳までこの地で農業をしておりましたが、引き揚げられたという話は聞いておりません。」 

 

 

 

 

 

二式大挺の話を知ってから、郷土資料や二式大挺についての雑誌、戦時中の手記などあらゆるものを見てみましたが、当時、実際に銃撃処分を見ていた住民の証言というのはどこの本を探しても載っていません

というか、処分の話も「最後の飛行挺」という手記に載っているのみで他には一切の資料が無かったのです。

それ故、具体的な場所や後日談などは一切不明でした。

 

これは大変貴重な今ある中では唯一の証言です。

 

 

 

 

 

そして、その処分場所というのがこちら。

赤まるで囲ったこのどこかです。

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                               (海上保安庁刊行 W1174)

 

↓こちらの地図もご参照ください。

 

 

 

(前回の記事で、海図と勘を頼りに場所の予想をしていましたが、全然違う場所でしたね・・・)

akiyuki2119067018.hatenablog.com

 

 

 

海図をご覧ください。

険悪地の記号は見られませんが、安来市の西方、沿岸が水田、市街地からは離れた場所、などの手記の記述と一致しています。

 

 

 

実際に行ってみました。

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のどかな場所ですね。

 

野生の飛行艇がたくさんいます。

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せっかく来たので、付近に住んでおられる方々に話を聞いてみたのですが、なんと70代以下の人は全員この話を知らず・・・

村唯一の90代の方1人だけが、この話をご存知でした。場所もここであったということ。残念なことに、体調がよくないとのことでそれ以上の話は聞けませんでした。

 

現状としては、実際に見たという方が2人、そのうち詳細な証言が得られたのは1人という感じです。場所に関していうと、別々の2人が同じ証言をしていることから、上記の場所でほぼ間違いないと思います。

 

 

 

 

ここまで読んで

 

なぜあれほど大きなものが沈んだのに海図に険悪地の記号がないのか。

 

と思った人もいるでしょう。一応それに対する弁明もあります。

先日、海上保安庁に海図の険悪地に対する質問をいくつかし、回答をもらいました。

詳細はまた別記事に書きますが、頂いた資料や回答から察するに、この周辺の海底調査の精度は私が思っていたほど良くないようなのです。

以前ご紹介した険悪地のほとんどは平成20年以降に見つかったもので、その前の調査が昭和30年代である海域もいくつかありました。

そういう訳で、場所によっては未だに新規の調査が行われておらず、昭和30年代の紐で水深を測っていた時代の情報が海図に載っているということもあり得ます。(そこまで可能性の高い話だとは言えませんが。)

そして、その平成20年以降の調査に使われた機材もいわゆる「シングルビーム」と呼ばれる比較的旧式のもので、物体が砂に埋もれていた場合には検出することが難しく、また、直下の水深しか測れないため、調査船の航路によっては大きな物体でもスルーされる可能性があります。水深が浅ければなおさらです。

まぁ、ただ単に引き揚げられたからもう無いんだという可能性も十分にありますが。

 

 しかし、今のところ引き上げられたという話が残ってないのです。

あれほどの機体が揚がれば一時、残骸が近くの漁港に置かれたりなどして話題になるか、数日はかかる作業の様子を付近の住民の誰かが目撃しているはずです。現場の近くで25歳まで農業をしていた友人の祖父も引き揚げられたという話は聞いたことがないということでした。

 

 

 

 

この資料の少なさ、知る人の少なさから、なんだかそのまんま放って置かれているような気もしますね。

 

 

 

まぁ、とにかくここも実際に湖底を見てみないと本当のことがわかりません。

 

 

今回、非常に貴重な証言を得ることができ、調査に大幅な進展がありました。

個人のレベルでできることはそう多くないので時間はかかりますが、少しづつ、ゆっくりと調査をすすめていきたいと思います。  

 

               

 

 

               ~続く~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ジムニーja11の整備。~マフラー、ショック交換~

今年の3月にジムニーja11のマフラー、ショックアブゾーバー、その他ゴムブッシュの交換を行ったので今回はそれについてです。

 

 

平成2年製、ja11の1型です。
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2年間の車検に加えて、天井の内張りの張り替え、車体の再塗装、発電機のオーバーホールなどが付いて40万円でした。

走行距離は15万km。(もしかしたら25万kmかも・・・)

神戸の車屋さんで購入した後、自走で帰って来たのですが、納車直後は40km/hで早くもエンジンが逝きそうな音がして、常に車体の底からよくわからない異音と激しい振動が響く...店の人に「70km/h以上出すと壊れます。」と言われただけあってとにかくヤバい車でした。

 

今回の部品交換を始め、様々な整備をやってみた結果、今ではだいぶ状態が良くなり走行中の車内もずいぶん静かになりました。その気になれば130km/hくらいは出そうです。100km/h巡行もできます。

 

 

 

今回はそのマフラーとショックの交換について書こうと思います。しかし、これら一連の作業はブログを始める前に行ったということもあり写真をろくに撮っておらず、それ故詳しい手順の説明が出来ません。

部品交換の様子というか、結果だけでも誰かの参考になればと思います。

 

 

 

 

 

まずはショックとゴムブッシュの交換について。

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今回選択したショックはこれです。

 

リア用

 

 フロント用

 


 

また、ゴムブッシュとは...

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こんな感じのゴムパーツで板バネの接続部分、マフラーやショックの固定部分などに使われています。そんな頻繁に交換するものではありませんが、今回の車両は28年落ちということで相当に古いので交換しました。

ゴムブッシュはまだ純正パーツが買えます。

 

 

 

 

そんなこんなで作業開始。

タイヤを外した後、車軸を持ち上げながら板バネの固定部分を外し、ショック→ブッシュという順番で部品を交換、という流れだったのですが、これが地獄でした....

 

↓唯一の作業風景写真。
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特にブッシュ交換。部品がいちいち死んでいました。特に後輪の板バネ部分は最悪。

もうね...ブッシュが無い。風化して無くなっていたんです。おまけにその亡骸が石みたいにガチガチになって固着して取れません。

28年間いつでも一緒にいた彼らですからよほど別れが惜しいのでしょう。

最終的に細いノコギリでゴムを切ってくりぬいて、残った細かいのはバーナーで焼き尽くすというド素人DIYでなんとか切り抜けました。1つ交換するだけで8時間...

 

板バネも一度外すと再度取り付ける時に中々ネジ穴が合わず....ジャッキを噛ませて曲げたりしながらどうにかハンマーで叩いてねじ込みました。

 

 

 

外したショックがこれです。この2本は同じ部品です。
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なんとこのショック、自力で元の長さに戻るという仕事を完全に放棄しています!!!

今までよくこれで走ってこれたなぁ...

 

ショックとゴムブッシュ交換の効果としては、

  • 車高が高くなった。(元の高さに戻った)
  • 乗り心地がよくなった。
  • 走行時の騒音、振動が減った。

 

という感じでした。

 

 

 

 

 

 

続いて、マフラーの交換。

今回はフロントパイプも交換しました。


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こんな感じで作業を行いました。

 

 

 

選んだマフラーはこれです。

 

純正タイプのステンレスマフラーです。

純正よりも若干音が大きくなりますが、気になるほどではありません。(それ以上にエンジンがうるさいから)

純正よりも圧倒的に軽く、そして自動車のマフラーにしてはとても安い。

なんと8000円で買えました。品質も非常に良いです。

 

 

それとフロントパイプはこれ。

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感想(37件)

触媒がついていないタイプのものですが、ja11の1型は触媒無しでも車検に通るとのこと。こちらも純正に比べて重量が軽く、抜けがよいです。

 

 

並べてみました。
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当然ですが、無加工で付きます。

 

ガスケットもあわせて新品に交換しましょう。
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足回りよりは比較的楽でしたが、それでもボルトが固着している箇所があり苦労しました。一番辛かったのは、マフラーを固定するボルトが外れる時にネジ穴を削り取りながら出てきたことですね.....新品のボルトに交換したらなんとか固定出来ましたが...

 

 

それと、マフラーの数ヵ所にアースを設けてみました。排気のススがマフラー内部にこびりつきにくくする為です。どれほど効果があるかは微妙な所ですが、とりあえず...

アース線は自作しました。

 

 

マフラー交換の交換としては、

  • 振動が減った。
  • 排気の抜けが良くなりパワーが上がった。

 

みたいな感じです。

フロントパイプ、マフラー共にかなり劣化していたので新品に交換できて良かったです。

 

 

 

 

 

 

 

以上でja11のマフラーと足回りの交換は終わりです。

交換後半年が経ちましたがいずれの部品にも不具合などは一切なく、しっかり仕事をしてくれています。

作業難易度も個人でできる範囲ですのでja11ユーザーのみなさん、ご検討されてみてはいかがでしょうか。

 

 

 

                                ~完~