UCHIMACHI BASE

主にバイクやその他の趣味について書いてます。

02:一式陸攻を探す旅。~現地視察編~

先日、中海の底に人知れず眠っているかもしれないという一式陸攻の話をご紹介しましたが、あれから大きな進展がありました。

 

↓前回の記事。

akiyuki2119067018.hatenablog.com

 

 

なんと、、、当時、不時着を目撃し、実際に救助に行った漁師の息子さん(当時小学校6年生)がまだご存命で、当時のお話を聞くことができたのです!!

 

その方曰く、

「初めはあまりにも高度が低いので水上飛行機かと思っていた。その後、主翼が水面を叩き始めそのまま主翼を軸にくるっと水面で回転し、ちょうど自分の家の前の沖合い500mくらいの場所に着水した。しばらくすると機体上部の方から人が出てきて、手を振っている様子だったので父と共に船で救助に行った。」とのこと。

衝撃的な出来事だったのであれから73年たった今でもよく覚えているそうです。

 

 

検証してみましょう。

これが不時着現場周辺の現在の地図です。
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                       (国土地理院より引用)

 地図の上のほうに飛行場があります。出っ張っているのは戦後に滑走路延長のため、埋め立てられた部分です。

その漁師さんの家は「米子市」という文字のちょうど「米」の辺り。昔はここが海岸線でしたが、ここも戦後、工場誘致のため200mほど埋め立てられています。(工場誘致は結局失敗に終わり今はソフトバンクのメガソーラー発電所になっています。)

 

しかし、その漁師さんの家の正面(地図でいうと海岸線に垂直)はずいぶんと現在の滑走路から外れた位置にあります。

一体これはどういうことなのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

この謎を解く鍵は手記の中にありました。

手記には

「21:30。最初に離陸線に着いた。風は左前方、安来市方面から吹いていたので中海に向かって滑走路を始めた。」という記述があります。
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                                (Google mapより引用)

 写真を見てください。飛行場から見て安来市は確かに左前方、方角ではほぼ真南にあります。

そして、この方向から風が吹いていたということなので、この時おそらく現在の滑走路に対してやや左斜め向きの方向に離陸を試みたのでしょう。当時の滑走路は現在のものとは全くの別物で、本数も4本あったそうです。

 

そしてその方向(安来に向かって)に飛び、すぐに着水した場合、ちょうど救助に行った漁師さんの家の真正面辺りになります。

辻褄が合いますね。

 

 

 

そしてまた先ほどの国土地理院の地図です。
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                                (国土地理院より引用) 

全高が5mほどある一式陸攻が水面に隠れるには少なくとも6m以上は水深が必要だと思います。漁師さんの証言では不時着位置は旧海岸線から500m、手記では1000mと記載されており証言にズレがありますが、不時着したのは深夜あるいは早朝の暗い時間帯だったようなので正確に目視で距離を測るのが難しかったのでしょう。

手記の記述と漁師さんの証言、地図上の水深データから、不時着した地点は旧海岸線から大体600m~1200m、水深6~7.5mほど(当時)の湖底だったのではないかと予測が立ちます。

 

 

 

 

さっそく行ってみようという話になり、現場へ。
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道を間違え、道なき道を行くことに.....でもジムニーだから大丈夫。抜群の走破性で現場に到着。

 

 

ここがその現場です。ここから正面に400mほど行った所が先ほど予測した地点です。
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 この日は風があまりにも強くとても泳げる状態でなかったため捜索は断念。

 

 


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遠すぎて見えませんがこの先に美保基地があります。

 

 

 

 

今回はここまでです。

 

ここで一つ気がかりなのが、もう既に過去に見つけられてしまって処分され、現存していないのではないかという点ですよね。

この辺りは戦後にだいぶ整備され大きく水深が変わってしまっています。また、干拓事業の際に海底調査が何度も行われているようです。水深の浅い穏やかな海ですからあれほどの鉄の塊など見つからない方が不思議なくらいです。

 

 

 

しかし、過去に発見されたということはないと私は思っています。

 

当時、この不時着を知る人はごく僅かに限られました。離陸を見守った管制官ですら戦後十数年経ってから不時着したことを知ったくらいですから本当に誰も知らなかったのです。手記も発行部数は400冊ほどでそのほとんどが戦友やその遺族の方々のもとへ配られました。

よって戦後、行政や自衛隊が不時着を把握し、「あの時不時着したから調査して引き揚げよう」という話になることはおそらくなかったと思います。

 

残る可能性として挙げられるのは干拓事業の際に偶然見つかったというものですが、この可能性も薄いと思っています。

私の曾祖父は県の土木課に勤務しており、干拓事業の際はその責任者の一人でした。

しかし、中海から飛行機が揚がったという話は家族の誰も聞いたことがありません。

もっと言うと、当時救助に行ったあの漁師さんさえもそんな話は聞いたことがないとおっしゃっていました。

一式陸攻はサイズがかなり大きいですし重さも15tほどあります、そしておそらくこの機体は250kg爆弾を4発ほど積んだままです。

250kg爆弾一発で巡洋艦が撃沈できると手記に書いてありましたからこれはめちゃくちゃ危ないです。そんなものが海底調査の際に水深10m足らずの湖で見つかったら当然大騒ぎになります。新聞にだって載ったでしょうし、海もしばらくは立ち入り禁止になったでしょう。市史に残る大事件です。

ゴミだと思って書類報告も無しに捨ててしまったというのも考えにくいです。

 

 

 

以上から、現在も湖底に沈んでいる可能性は高いと思います。

 

本当は今にでも警察や自衛隊に届け出たい所です。しかし現段階ではまともに対応してもらえないでしょう。

そりゃそうです。戦後73年にもなって、「湖に爆撃機が沈んでるぞ!!!」なんて証拠も無しに言ってる一般人がいたら寒いイタズラか何かだと普通は思います。

向こうも仕事で忙しいですからそんな訳の分からないものを相手にしている暇はありません。

それに地元の共通認識として中海と戦争はあまり結び付くことがないのでなおさら嘘臭い話に聞こえてしまいます。

 

 

 

 

とにかく証拠を示さなければ何も始まりません。

 

 

 

泳ぐかぁ.........水、臭そうだけど.......

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                               ~続く~