④湖底に消えた二式大艇。 総集編 ~海没処分の全容~
・はじめに
終戦後の昭和20年8月22日、島根県の中海にて海没処分されたといわれる日本海軍の飛行艇「二式大艇」について調査を行い、当時行われた処分の様子やその後の真相を追った。
・二式大艇とは。
二式大艇は大日本帝国海軍所属の飛行艇である。レシプロエンジン搭載の飛行艇としては当時世界最高の性能を誇る傑作機とされる。
本稿では機体の詳細なスペックや戦歴等は省略するが、大まかな機体の大きさは把握しておいてもらいたい。
全幅 | 38.00m |
全長 | 28.13m |
全高 | 9.15m |
↓詳しくはwikiでも・・・
全タイプ合わせて合計で168機が製造された二式大艇だが、今現在現存しているのは鹿児島県の鹿屋航空基地資料館に野外展示されている一機のみである。
↓これ。
これは後述の終戦後詫間に向かった作戦機3機のうちの1機である。
米軍に引き渡された後、1979年に日本に帰ってきた。
・海没処分の概要
この海没処分の話は飛行艇隊を率いた日辻常雄少佐(当時)が戦後に執筆した手記「最後の飛行艇」に登場する。
ここからは手記を一部抜粋しながら、この中海にやってきた二式大艇が処分されるまでの行動履歴を追っていきたいと思う。
前述の通り、二式大艇は合計で168機が生産された。しかし終戦後、連合国軍から機体の引き渡しが通達された段階で作戦行動(飛行)が可能であった機体は石川県の七尾基地に残っていた3機のみであったという。
昭和20年8月21日、その3機に詫間基地(香川県)への集結指示が下り同日、3機は詫間へ向かう。
3機のうち2機は無事に詫間へとたどり着くことができたが、後始末で出発の遅れた1機(森中尉)は天候悪化と燃料の欠乏、エンジン不調のため中国山地が越えられず、やむなく当時飛行艇基地があった島根県の宍道湖に着水を試みた。
しかし、戦後の混乱状態と視界不良からか、宍道湖だと思って間違えて中海に着水してしまったのである。
※手記の著者である日辻少佐の機は無事に詫間へ到着しており、中海に着水した機の現場の様子についての記述等は筆者の実体験ではなく、この機の機長である森中尉からの伝聞を元にしている。
中海に着水後から処分命令前までの様子は以下の通り。
「中ノ海ならば美保基地がある。801空の戦闘機隊もいるはずである。ここで燃料補給をしようとして陸図をたよりに水上滑走を続けたが、この辺一帯は遠浅で座礁してしまった。悪天候の夏の日は暮れるのも早い。夕闇迫るころ、やっと離礁し、機長は漁船を見つけて一人陸へあがり、美保基地へたどりついたが、終戦後の美保基地は荒涼たる風情で人影もまばら、補給機能も資材も分散しているため、燃料補給など支援できるすべもなく、湖上にポツンと浮かぶ大艇にもどって、その日はクルー一同、非常食を食べて艇内で一夜を明かしたのである。電信員が懸命に詫間との無線連絡を保ち、22日救援機派遣の情報をとらえ、一縷の望みをかけ、極力接岸に努め、安来市西方の湖上に投錨して夜明けを待った。頼みの無線も途絶えたまま、やむなく安来の郵便局に事情を説明して、詫間本部との連絡に努めた。」
この機は着水後、補給のためにまず美保基地へ向かった。
これが現在の美保基地周辺の様子。
戦後に護岸工事や埋め立て工事が行われ、現在は地形が大きく変わっている。
現在埋め立てられている場所の元の水深は1m程度であり、非常に浅い。当時は近くに小さな舟溜りや漁港があった。
引用文中に基地との連絡のため周辺の漁船を利用したという記述があるが、今回その漁船を所有していた家の方に当時の話を聞くことができた。
・証言者:Eさん(当時10歳)
終戦当時、私は小学4年生でした。
当時、我が家は漁業を営んでおり、美保基地そばのマノメ(船だまり)に家がありました。
二式大艇は直接は見ておりません。父から後で聞きました。
飛行艇は岸のかなり近くまで来ていたのではないでしょうか。
人が翼のうえに大勢乗っていたそうです。
合図があったのかはわかりませんが、うちの父と隣のKさんの2人でうちのポンポン船を出して、岸と飛行艇を何往復かして隊員達を運び、陸にあげました。
その時、白い毛布や蚊帳を飛行艇から運び出し、たくさんもらって二軒で分けました。当時毛布は貴重品で、とても立派なものでした。他に運んでくるものが無かったのか、毛布や蚊帳は本当にたくさん積んでありました。
隊員達はまたすぐに飛行艇へ帰っていったと思います。
隊長が一人、後始末のためか最後まで陸に残っていました。
その隊長を家に招いて麦飯とみそ汁をご馳走しました。
夕方ごろ、学校から帰ると家に隊長が来ておられたのを覚えています。
「うまい、うまい」と言って食べておられました。
聞いた話によれば、その後飛行艇は沖のほう(安来市方面)へ持っていって焼いたそうです。
それから先はわかりませんが、数年後サルページが引き上げに来たと聞いています。
その後、美保基地での補給が見込めなかったため、隊員たちは機内に戻り「安来市西方の湖上」にて一夜を過ごす。「接岸に努め」とのことなので岸からはそこまで離れていなかっただろう。
そして「安来の郵便局」に立ち寄ったとされるが、詫間へ電報を送るためだったのではないだろうか。郵便局については昭和15年以前から現在に至るまで特に場所の変更は見られないので、手記中の郵便局とは現在の安来郵便局のことである可能性が高い。
また、引用文中に「陸図を頼りに~座礁してしまった。」という一文がある。この記述から察するにこの機のクルーたちは中海の航海図を持っておらず、湖の正確な水深を把握できていなかったのではないだろうか。水深が分からないのであれば座礁もするだろう。これは後に若干かかってくるので覚えておいてもらいたい。
そして翌日の8月22日、この機は再び飛ばす手段が尽きたと判断され、詫間基地にいた日辻少佐から森中尉へ次のような命令が下った。
「その機を飛ばせる手段は尽きた。大艇の機銃をおろし、搭載兵器は破壊し、機体は銃撃により処分したうえ陸行で帰隊せよ」
この処分命令を受けてからの状況を森中尉は後に次のように語ったという。
「自責の念にかられ哀惜の情に耐えかねつつ、大艇の処分にかかった。付近は市街地を遠く離れ、沿岸の水田はすでに稲穂が黄ばんでおり、一見のどかな風情を呈していた。
まず機銃をおろし、無線機類を破壊した。一同海岸に整列して、ともに戦ってくれた愛機に対し最後の挙手の礼を送って訣別した。滂沱たる涙で顔はくしゃくしゃになった。以心伝心的に事情を知った付近の住民は、搭乗員の後方に集まって涙ながらに合掌していた。
機銃を岸に据え、まさに銃撃を開始しようとしたとき、今まで岸に平行に横腹を見せていた大艇は、風もないのにその向きを変えはじめたのである。(~中略~)
胸にこみあげる熱いものをぐっと抑えながら、漁船を借りて射手を乗せ、大艇の正横に位置させた。「許せよっ」と合掌しながら発射を命じた。
中ノ海に響きわたる銃声はあまりにも悲しかった。ほとんど撃ち尽くしたが、なかなか燃えなかった。
射手は悲壮だった。弾倉を交換しながら涙の射撃を続けなければならなかった。ついにタンクから火を噴いた。やがて胴体が爆発を起こし、紅蓮の炎に包まれながら静かに沈みはじめた。あの特徴のある高い尾翼をしばらくの間湖面に浮かべていたが、やがて聖者の最期を思わせるように水面から姿を没していった。」
その後、この機のクルー達は地元の人々に暖かく迎えられ付近の民家で一泊したのち翌23日早朝、住民によって漁船で米子まで送られ、そのまま詫間まで陸路で帰還した。
以上でこの海没処分についての手記の記述は全てである。これ以上の情報は手記には載っておらずまた、山陰の歴史文献等にもこれ以上の情報はおろか海没処分の事実さえ記載したものは一切存在しない。
手記の記述によると当時、機体処分の様子は多数の地元住民が目撃していたということである。ならば、誰かこの二式大艇を知る人が今でもいるのではないかということで調査を行った。
そして今回、幸運にもこの事を知る方から証言を得ることができた。
本件は先ほど紹介した手記の他には一切の資料が残っていないため今現在、これらの証言が処分が行われた場所や、処分後の機体の様子を伝える唯一のものである。
・証言者:Aさん(当時6歳)
「私は安来の福井という所に住んでおりました。当時六歳でしたが、飛行艇のことは覚えています。遠くからでも高く黒煙が上がるのを見て湖岸に行きますと、大勢の人が集まっており、大きな飛行艇が燃えておりました。岸から五十~百メートルほどありました。半ば沈んでいる状態でしたが、よく燃えておりました。処分に使った機関銃は見ていません。大人たちが近くに行かせてくれませんでした。それでも顔が熱く、髪が燃えるような気がしました。近所の人が船で濡れた兵隊さんを助けていました。その方は、「黄色い汗が出とった。」と言っておりましたが、きっと油か何かをかぶられたのでしょう。しばらくは、飛行艇の部材でしょうか、生ゴムとスポンジのようなものがたくさん岸に上がりました。飛行艇は干潮の時には垂直尾翼を水面から出しておりました。
同じ部落の人で、飯梨川の砂を木造船で松江に運ぶ仕事をしておられる方がおられましたが、この尾翼に当たって船底に穴が開き、急いで引き返したという騒ぎもありました。二十五歳までこの地で農業をしておりましたが、引き揚げられたという話は聞いておりません。」
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この方の証言によって海没処分が行われた大まかな場所が判明した。
安来市西方、吉田川の河口付近である。
・証言者:Bさん(当時5歳)
次の証言者はAさんの証言にもあった二式大艇に衝突したという船を所有していた家の方である。
「飛行艇の件は知っておりますが、海没処分した時は幼くて記憶にありません。しかし、その後のことは多少覚えております。我が家は昭和の初め頃から、昭和50年頃まで生コン用の川砂を採取し、運搬、販売する仕事をしておりました。父は中国へ出征しており、戦後まもなく復員して参りました。その後家業の川砂の仕事を再開しましたが、父は二式飛行艇の事を知らず、川砂運搬中に船を機体の一部に当ててしまいました。船の肋骨が2本折れ、3本目で止まりました。砂を積んでいたため浸水が激しく、農業用の川舟2艘に挟まれて何とか船着き場に戻りました。船は修理しましたが、再びこういうことがないように、二式大艇が沈んでいる部分に櫓をたてました。岸から20~30mだったと思います。
しばらくして、二式飛行艇のフロートが打ち上げられ、岸辺に長い間放置されておりましたが、いつの間にか無くなりました。二式大艇の亜鉛葺きの錨は、引き上げて我が家の船で使っておりました。これは、昭和50年頃廃業した際に、知人に譲渡してしまったため現在の所在は分かりません。その方の船も古くなり沈めてしまったそうです。櫓は朽ち果てたのか、今はありません。」
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二式大艇にぶつかったのは戦後1~2年後であったとのこと。この方はその後お父さんの後を継ぎ、同じ船を使って昭和50年頃まで砂の運搬の仕事をしていた。
その船がこちら。
いわゆる「ポンポン船」と呼ばれる発動機付きの木造船である。
・証言者:Cさん(当時16歳)
「私は当時安来農高3年生、16歳。この出来事があったのは昭和20年8月22日でした。その日は学校が休みだったので家にいました。ふと中海を見ると、飛行艇がこちらへ向かって来ていました。台風で堤防が壊れて、家から見えたのです。4発の大きな飛行艇でした。翼の上に20人くらいの兵隊さんが立っていて「おーい」と声が聞こえました。驚いて海岸に行くと、「荷物を運びたいから船を出してくれ。」と言われました。大勢の人が集まり、近所に住んでるおじいさんがポンポン船を出しました。私もその船に乗って、飛行艇の中に入り、兵隊さんの荷物を下ろしたり、運んだりする手伝いをしました。荷物はおじいさんの家に預かってもらいました。飛行艇は堤防にある防風松にロープで係留し、錨も下ろしておりました。
荷物が揚がると、兵隊さんが松の木のあたりから機関銃で二式大艇を「ダダダーン、ダダダーン」と撃ち始めました。しばらくすると燃料に火が付き大きく燃え上がりました。係留していたロープや、錨のロープも燃えて切れました。機体は燃えながらこちらへ近づいて来たと思うと、河口で転覆して沈みました。浅かったので尾翼をはじめフロートなど、3分の1は水面上に出ておりました。機長さんが私に「尾翼の菊の御紋章を残しているのはまずいので、頼む、消しておいてくれ。」とおっしゃいました。
2,3日後、我が家の船を出して、鉞で尾翼を叩き壊して分からないようにしました。
終戦後なので色んな人が来ました。フロートは私と前の家の人が外して持って帰りました。錨も集落の人が引き揚げました。後にフロートはボートにするからと安来の人が持って帰りました。錨も安来の人が持って帰りました。
その後もしばらくは胴体と翼が水面上に出ていましたが、9月の初め頃に台風が来て全部見えなくなりました。ただ、その場所に行くと1mほど下に沈んでいるのが水面上から見えました。
ある日、プロペラの先が水面上に出ていて、Bさんの家の土砂運搬船が引っかかりました。戦争に行っておられたので二式大艇のことを知らなかったのです。私はその場を見ておりました。「おーい、頼むわ」と声をかけられたので、我が家の農耕船を出して、他の家の船と両側から挟んで、沈まないようにロープで縛りました。そして、安来港の造船所へ向かいました。
それから、昭和25年7月の25日の朝鮮動乱。内需拡大で鉄屑回収が盛んに行われました。25年の10月頃のある日、サルベージ船が来て全部引っかけて機体を持って帰りました。残骸も残っていません。このあたりではなく、他所から来た業者でした。
また、あのとき船を出した隣のご夫婦の息子さんはフィリピンで戦死されています。この小さな集落で3人も戦死しました。二式大艇が沈んだときは、何ともいえない気持ちでした。」
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当時16歳であり、また処分場所に最も家が近かったということでこの方が最も事情に詳しい。機体の詳細な状況や、当時の住民のやり取りなども窺い知れる。
他の2人は引き揚げなどの話は知らないとのことであったが、この方は機体の引き上げを目撃している。この目撃証言によって機体の大部分が回収され、残っていないという可能性が高くなった。
また、処分後に水面から出ていた機体の一部について、Aさんは尾翼であったと証言しているが、Cさん曰くプロペラであったとのこと。
以上が、今回得られた証言である。
では次にこれらの情報と手記の記述、実際の地図などから処分の様子から引き揚げまでの様子を見てみよう。
昭和20年8月22日、島根県東赤江町において二式大艇の銃撃処分が行われた。
安来市街からは車で10分程度の距離にあるが、家もまばらで市街地中心からは遠く離れているような印象を受ける。非常にのんびりとした雰囲気の、のどかな村である。
手記の記載通り、海岸沿いには現在でも水田がみられる。
証言によると、具体的な処分場所は海図の赤丸の部分。付近の水深は浅く、5m程度しかない。全高が9.15mもある二式大艇を沈めるためには水深が浅すぎる。
なぜこの場所を選んだのかという話だが、手記の中でも述べられている通り隊員達は陸図を頼りに中海を移動していたため、正確な現場の水深を知らなかったことが原因なのではないか。
そしてこの場所から銃撃を行ったとされる。下の写真は昭和50年代の航空写真。
Cさんの証言中に機体に銃撃を加える際、沿岸に生えていた松の木に二式大艇を係留したというものがあるが、この写真でも沿岸に松が並んで生えているのが確認できる。
しばらくして機体が向きを変えたため漁船に乗り換え、そこから撃っている。その後燃料に引火し機体は爆発、炎上。「顔が熱く、髪が焼けるようだった」という証言もあるので岸からはかなり近かった様子。岸から20~50mといった具合だろう。
その後、機体はゆっくり河口に近づいてきた後、転覆して沈んだというがここで、証言と手記に大きく差異がみられた。
手記にはその日のうちに機体が尾翼まで完全に沈んだというように書かれている一方、Cさんの証言では水深が浅かったため尾翼やフロートなど、機体の3分の1ほどは水面から出ていたとされている。
証言によると機体が完全に沈んだのは9月に入ってから。台風の際に壊れて沈み、完全に見えなくなったとされている。ただ、現場に行くと1mほど下に沈んでいるのが見え、また干潮の際にはプロペラが水面から出ていたという。
そして終戦の翌年、もしくは翌々年、Bさんの家の船がそのプロペラにぶつかった。
今でこそ、この二式大艇処分の話を知る人は少ないが当時は多くの人々に知られており、いろんな人が機体の残骸を見にきたり、その一部を持って帰ったりしていたようである。そして昭和25年10月、どこからともなく話を聞きつけてやってきたサルページ船が機体を引っ掛けて回収していった。現状として、どこまで回収していったのかという部分は不明である。
機体は処分時に爆発炎上し、その後も台風で破壊されているので回収時に完全な状態であったとは考えにくい。もしも残骸が散らばっていたのなら、回収されなかったものがまだ湖底にあるのではないかと思っている。
以上がこの二式大艇の処分から回収までの流れである。
・まとめ
今回、二式大艇の海没処分について調査を行い新たな事実が分かった。残念なのは我々が調べるまで、この事実は戦後70年以上山陰地域のどの歴史文献にもまとめられず、ずっと埋もれたままであったということである。
また、この一連の調査結果は証言にあった処分現場とされる場所から機体の残骸等が出てこない限りはあくまで「仮説」の域を出られない。今後何らかの形で世間の関心が集まり、然るべき組織によって本格的な海底調査が行われることを強く望む。
そしてこの二式大艇のエピソードが戦争に関わる歴史的事実として地域で広く知られることとなり、永く伝わっていくことを願うばかりである。
~おわり~
海底に眠る海軍機。 隠岐編 ~美田湾の飛行艇~
こんにちは。
前回の記事では中海に海没処分された二式大艇について書きました。
akiyuki2119067018.hatenablog.com
結果的に機体は引き揚げられていたとのことで、少し残念でしたが、何より長い間詳細不明だったものが今回の調査ではっきりと分かって良かったと思います。
今後は得られた証言を歴史資料としてきちんとした形で残すということをやっていこうと思います。機体の有無以上に大切な作業です。
さて、今回はまたその二式大艇とは別の話。
二式大艇についての証言を得る前、安来市立図書館にて資料を探していると「島根県歴史大年表」という本にこのような一文がありました。
昭和20年8月17日、黒木村の美田湾という場所で飛行挺を機銃で銃撃処分した、と書いてあります。
見つけた当初は例の安来市の二式大艇のことかと思いましたが、日付が異なることからそれとは別のものだと判断しました。
他の文献もいくつか見てみましたが、一切この件に関する記述がありません。
これも記録に残っていないパターンか・・・?
そもそも黒木村の美田湾とは........一体どこのことなのでしょう.....??
黒木村という地名も美田湾という港もこの辺りでは聞いたことがありません。
調査を進めていくと、島根県隠岐の島に「黒木」という地名が部分的に見られることがわかりました。
どうやら現在の「西ノ島町」という地区がかつての黒木村だったようです。
合併で地名が変わったのですね。
↓こちらを参照。
そうなると美田湾というのは・・・
ここの事を言うのでしょう。「美田」という地名があります。
そして幸いにも美田湾の海図が手元にありました。
(海上保安庁刊行 W116)
結構な部分が未測ですね。
湾内に険悪地の記号が見られないことからこの時点で、機体は未測領域にあるか、もしくは引き揚げられたということが予想できます。
さて、黒木村の美田湾の場所はわかりましたが、この飛行艇の詳細や当時の様子などは未だ一切不明です.....
隠岐の島に行こうにも......遠いです。そして結構フェリー代が高い。
そこで資料を持っていそうな場所へ電話で問い合わせてみることに・・・
西ノ島コミュニティ図書館「いかあ屋」という場所です。
「行こうよ」みたいな意味の方言ですね。
事情を説明し、資料がないか聞いてみました。
数時間後返事が返ってきて、
「残念ながらこちらに資料はありませんでした。しかし、当時一部始終の様子を見た。というおじいさんが近くにいらっしゃいます。」
ということでした。
なんと、「実際に見た。」という方がおられました。
今回も運がいいです。
その後、図書館を通じてその方と連絡を取ってみましたが、お話を聞かせていただけることになりました。後日伺う予定です。
また、「西ノ島 戦争」でGoogle検索をしたところ、このような動画が出てきました。
↓これです。
この動画の冒頭部分に美田湾の飛行艇と思われる飛行艇の話が出てきます。
これによると戦争時、美田湾にいた飛行艇は偵察機であるとのことで、終戦後しばらくして引き揚げられたとのこと。
機体についていた岩ガキをみんなで食べたという話がとても印象的ですね。
以上、今現在で分かっていることはこれだけです。
空襲もなく平和な島だったという隠岐の島ですが、それ故、戦時下の様子などの資料がとても少なく、今回の飛行艇が一体何という部隊の何という飛行機だったのか、他にも飛行艇はいたのか、どのような基地がおかれていたのかなど、不明な部分が多いです。
来春以降に隠岐の島に行こうと思っているのでその時にまた新たな情報があったらご紹介します。
隠岐には以前から一度行ってみたいと思っていたので、いい機会です。
~続く~
③湖底に消えた二式大艇。 ~二式大艇は引き揚げられていた!~
こんにちは。
前回の記事では二式大艇にぶつかった船の話をご紹介しました。
akiyuki2119067018.hatenablog.com
そして前々回の記事で「この海没処分を目撃した現在90代の方がいる」というような事を書いていたと思いますが、
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今回はその方にお話を聞くことができました。
先日証言のあった処分現場に最も近いところに住んでおられる方です。
今まで証言をしてくださった方の中でダントツで最年長の方ですね。
以下、伺った話の要約です。
「昭和20年8月22日、私は当時16歳でした。その日は学校が休みなので家にいました。ふと中海を見ると、二式大艇がこちらへ向かって来ていました。台風で堤防が壊れて、家から見えたんです。4発の大きな飛行艇でした。翼の上に20人くらいの兵隊さんが立っていて「おーい」という声が聞こえました。驚いて海岸に行くと、「荷物を運びたいから船を出してくれ。」と言われました。
大勢の人が集まり、近所に住むおじいさんがポンポン船を出しました。私も船に乗って、飛行艇の中に入って、兵隊さんの荷物を下ろしたり、運んだりする手伝いをしました。荷物はそのおじいさんの家に預かってもらいました。飛行艇は堤防にある防風松にロープで係留し、錨も下ろしておりました。
荷物が揚がると、兵隊さんが松の木のあたりから機関銃で二式大艇を「ダダダーン、ダダダーン」と撃ち始めました。燃料に火が付き大きく燃え上がりました。係留していたロープや、錨のロープも燃えて切れました。燃えながらこちらへ近づいて来たと思うと、河口で転覆して沈みました。浅かったので尾翼をはじめフロートなど、3分の1は水面上に出ておりました。
機長さんが私に「尾翼の菊の御紋章を残しているのはまずいので、消しておいてくれ。」と頼まれました。2、3日後、我が家の船を出して、鉞でたたき壊して分からないようにしました。
終戦後なので色んな人が来ました。フロートは私と前の家の人が外して持って帰りました。錨も集落の人が引き揚げました。後にフロートはボートにするからと安来の人が持って帰りました。錨も安来の人が持って帰りました。
また、胴体と翼が水面上に出ていましたが、9月の初め頃に台風が来て全部見えなくなりました。ただ、その場所に行くと1mほど下に沈んでいるのが水面上から見えました。
ところが、プロペラの先が水面上に出ていて、土砂運搬船が引っかかりました。その方は戦争に行っておられたので二式大艇のことを知らなかったのです。私はその場を見ておりました。「おーい、頼むわ」と声をかけられたので、我が家の農耕船を出して、他の家の船と両側から挟んで、沈まないようにロープで縛りました。そして、安来港の造船所へ向かいました。
それから、昭和25年7月の25日の朝鮮動乱。内需拡大で鉄屑回収が盛んに行われました。
25年の10月頃、サルベージ船が来て全部引っかけて持って帰りました。残骸も残っていないでしょう。このあたりではなく、他所から来た業者でした。
船を出した隣のご夫婦の息子さんはフィリピンで戦死されています。この小さな集落で3人も戦死しました。二式大艇が沈んだときは、何ともいえない気持ちでした。」
いままで、この二式大艇が戦後に回収されたのかという話については、知らない、聞いたことがないという人しかおらず、回収があった。見た。という証言をされたのはこの方が最初にして唯一です。
機体の有無についてはこれではっきりと決着がついたのではないかと思います。
手記ではこの二式大艇はその日のうちに尾翼まですべて沈んだというように書いてありましたが、どうも2週間ほどは半分以上がまだ浮いていたそうです。
そして、台風で沈んだ後に、海面に出ていたのは尾翼ではなく、プロペラだったとのこと。前回の記事で紹介した船も、ぶつかったのはプロペラだったのですね。
今回の証言でこの二式大艇の処分やその後の様子の全容が明らかになりました。
記事の内容が断片的なので読んでる方も整理がつきにくいかと思いますが、また近い内に一つにまとめたものを書こうと思います。
また、来春以降に地元の歴史研究会でさらに詳細にまとめた物を発表し、正式な歴史資料とする予定です。
現場のほうも、暖かくなったら泳いでみて、何か残留物がないか見てみようと思います。
~つづく~
交流電流の流れる原付バイクのテールランプにLEDは使えるのか?(タウンメイト)
こんにちは。
秋も一段と深まり、日だまりの恋しい季節となりました。皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。(時候の挨拶)
タウンメイトに乗り始めて3ヶ月、レストア前はボロボロの車体でしたが今のところ特に故障もなく元気に走っています。
本当に便利です。
早速本題に入ります。
この車両、元々6Vだったのを無理に12Vにしたせいかアイドリング時の灯火類がめちゃくちゃ暗いのです。特にテールランプ。
写真でみるとまだマシに見えますが実際見るともっと暗いです。
これだけ暗ければ、後ろから追突されてもおかしくないのではないかと少し心配になります。
ちなみに同じ規格の電球を使っているベンリィは
これだけ明るいです。
ということで、このテールランプを明るくするために色々考えた結果、電球をLEDに交換しようということになりました。というかこれくらいしか対策方法が思いつきません。
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今回買ったのはこれです。
900円でした。
この辺りで知っている人なら
「え?交流なのにそれ使えるの?」
と気になっているのではないかと思います。
そうです。カブやベンリィ、そしてこのタウンメイトなどの原付バイクの多くは発電量が少ないため、ヘッドライトやテールランプなどに交流電流が来ているのです。
テールランプはヘッドライトより複雑で、ポジションランプには交流が、ブレーキランプには直流が来ています。
通常はこれを全波化とかなんとかいう作業を行って直流に変換したりするのですが、
面倒なのでそのまま付けました。はい、光る。
正常に動作しているようです。交流でも大丈夫そうですね。
明るくなりました。
これで追突されることもなさそうです。
テールランプが暗いとお困りの方、是非LED化をご検討してみてください。
~完~
②湖底に消えた二式大艇。 ~尾翼にぶつかったポンポン船~
こんにちは。
前回の記事では得られた証言を元にして、二式大艇の海没処分場所をご紹介しました。
↓前回の記事
akiyuki2119067018.hatenablog.com
Twitterにて記事の宣伝をしたところ、多くの人にリツイートしていただき、普段と比べてめちゃくちゃアクセス数が増えました。
二式大艇って結構みんな知っているんですね。
最近はゲームやアニメなども昔の兵器を題材としたものが割りと多いので、その影響もあるのかなと思います。
まぁ何であれ、多くの人に知っていただく事ができ、大変嬉しく思います。
さて前回、友人のおじいさんの証言において、「同じ部落の人の船が沈んだ二式大艇の尾翼にぶつかった」というものがありましたが、今回はその船の持ち主だった方からお話を聞くことができました。
今回お話をしてくださった方は二式大艇にぶつかった方の息子さんで、終戦時はまだ5歳だったそうです。
衝突事件は終戦から1~2年後の出来事であったということ。
以下、証言の要約です。
「飛行艇の件は知っておりますが、海没処分した時は幼くて記憶にありません。しかし、その後のことは多少覚えております。我が家は昭和の初め頃から、昭和50年頃まで生コン用の川砂を採取し、運搬、販売する仕事をしておりました。父は中国へ出征しましたが、戦後まもなく復員して参りました。その後、家業の川砂の仕事を再開しましたが、父は二式飛行艇の事を知らず、川砂運搬中に船を垂直尾翼に当ててしまいました。船の肋骨が2本折れ、3本目で止まりました。砂を積んでいたため浸水が激しく、農業用の川舟2艘に挟まれて何とか船着き場に戻りました。船は修理しましたが、再びこういうことがないように、尾翼が沈んでいる部分に櫓をたてました。岸から20~30mだったと思います。
しばらくして、二式飛行艇のフロートが打ち上げられ、岸辺に長い間放置されておりましたが、いつの間にか無くなりました。亜鉛葺きの錨は、我が家の船に使っておりました。これは、昭和50年頃廃業した際に、知人に譲渡しました。その船も古くなり沈めてしまったそうです。
櫓は朽ち果て、今はありません。飛行挺を引き揚げたという話も聞いておりません。」
なかなかに興味深い内容です。
この方もまた、お父さんの後を継いで15年間ほどこの砂の運搬の仕事をしていたといいます。
仮に廃業したのが昭和50年だったとすると、その15年前の昭和35年、20歳の時に始めたということになりますね。まぁ大体16~20歳、終戦の10年後以降だと思います。
また、二式大艇の錨を引き揚げて自分の船で使っていたということですが、なんとまぁ・・・戦後も活躍していたんですね、二式大艇。
おそらく櫓を作ったときに引き上げたのではないかと思いますが、詳しい入手過程は不明です。
最終的に錨は廃業時に船のエンジンと一緒に知人に売ってしまわれたそうで、もう誰に売ったかも覚えていらっしゃらず、行方が分らないとのこと・・・
ちなみに船はエンジン付きのいわゆる「ポンポン船」と呼ばれる木造船です。
↓ちなみにこれがそのエンジンです。
また当時、その木造船が通っていた航路は大体こんな感じ。
(Google mapより引用)
木造船なので真水が流れている村近くの川に船を停泊させていたようです。
おそらくそれがこの川だと思います。
また、尾翼の場所に目印のために立っていたという櫓ですが、今現在はありません。
朽ち果てて無くなったらしいです。気が付いたらもうなかったとのことですが、いつまでそれがあったのかは不明です。
また、潮が引くと出ていた尾翼も、いつのまにか無くなっていたそうです。
気になるのは「二式大艇はまだそこにあるのか?」というところですが、今のところ回収されたという証言もなく、かといって機体も出てきていないことからなんとも言えないという感じですね。
ここまで詳細に色々な事を知っていて近くを毎日船で通っていた今回の証言者の方が、かなりの規模になったであろう引き揚げ作業に気が付かず、知らないというのもなかなか考えにくいことのように思いますが...どうなんでしょうか。
今回、新たな証言が得られ、処分後の様子が少しずつ分かってきました。
また、今回もまた別の目撃者の方を紹介していただいたので、その方と連絡が取れればこれで証言者は3人になります。
どの方も快くお話を聞かせてくださりとても助かっています。
最終的に、この件は機体の有無に関わらずきちんと詳細をまとめ、郷土の歴史として記録に残したいと思います。
~続く~
①湖底に消えた二式大艇。 ~処分場所がついに判明~
こんにちは。
いよいよ秋も深まり夜寒を覚える今日この頃ですが、いかがお過ごしでしょうか。
前回の記事。
akiyuki2119067018.hatenablog.com
一式陸攻も。
akiyuki2119067018.hatenablog.com
前回の記事を書いた頃には、もう海で泳げるような気温でもなく、泳げたとしても例の険悪地を見る手段もありません。
なので今年の海水浴はもう辞めてその後は、興味を持ってくれそうな人にこの話を紹介してみたり、図書館に行って資料を探したり、サバゲーのイベントに呼ばれてその見学に行ったりしていました。
そういう流れで先日、小学校以来の友人と数年ぶりに連絡をとって一式陸攻の話をし、大変興味を持ってくれたので一緒に不時着現場を見て周ってきました。
彼も飛行機の不時着云々という話は初めて聞いたらしく、最初はびっくりしていましたね。
一通り現地を周って説明した後、「これから一緒に探そうぜ。」みたいなことを言ってその日は別れたのですが、さっそくその夜に彼から電話が掛かってきました。
どんな用件かと思えばなんと、
「さっき祖父に二式大挺の話をしたら、当時安来に住んでて、実際に銃撃処分を見てたって。」
と言うのです。
なんという偶然。
あまりに話が急だったので一瞬訳が分かりませんでした。
本当に世の中はどこがどこと繋がっているか分かりませんね。
なんて運がいいのでしょう。
という訳で後日、その友達のおじいさんの家を訪問し、正式にお話しを伺ってきました。
以下、その時の話の要約です。
「当時は六歳でしたが、飛行艇のことは覚えています。遠くからでも高く黒煙が上がるのを見て、湖岸に行きますと、大勢の人が集まり、大きな飛行艇が燃えておりました。岸から五十~百メートルほどありました。半ば沈んでいる状態でしたが、よく燃えておりました。機関銃は見ていません。大人たちが近くに行かせてくれませんでした。それでも顔が熱く、髪が燃えるような気がしました。近所の人が船で濡れた兵隊さんを助けていました。その方は、「黄色い汗が出とった。」と言っておりましたが、きっと油か何かをかぶられたのでしょう。しばらくは、飛行艇の部材でしょうか、生ゴムとスポンジのようなものがたくさん岸に上がりました。飛行艇は干潮の時には尾翼を出しておりました。同じ部落の人で、飯梨川の砂を木造船で松江に運ぶ仕事をしておられる方がおられましたが、この尾翼に当たって船底に穴が開き、急いで引き返したという騒ぎもありました。その後、二十五歳までこの地で農業をしておりましたが、引き揚げられたという話は聞いておりません。」
二式大挺の話を知ってから、郷土資料や二式大挺についての雑誌、戦時中の手記などあらゆるものを見てみましたが、当時、実際に銃撃処分を見ていた住民の証言というのはどこの本を探しても載っていません。
というか、処分の話も「最後の飛行挺」という手記に載っているのみで他には一切の資料が無かったのです。
それ故、具体的な場所や後日談などは一切不明でした。
これは大変貴重な今ある中では唯一の証言です。
そして、その処分場所というのがこちら。
赤まるで囲ったこのどこかです。
(海上保安庁刊行 W1174)
↓こちらの地図もご参照ください。
(前回の記事で、海図と勘を頼りに場所の予想をしていましたが、全然違う場所でしたね・・・)
akiyuki2119067018.hatenablog.com
海図をご覧ください。
険悪地の記号は見られませんが、安来市の西方、沿岸が水田、市街地からは離れた場所、などの手記の記述と一致しています。
実際に行ってみました。
のどかな場所ですね。
野生の飛行艇がたくさんいます。
せっかく来たので、付近に住んでおられる方々に話を聞いてみたのですが、なんと70代以下の人は全員この話を知らず・・・
村唯一の90代の方1人だけが、この話をご存知でした。場所もここであったということ。残念なことに、体調がよくないとのことでそれ以上の話は聞けませんでした。
現状としては、実際に見たという方が2人、そのうち詳細な証言が得られたのは1人という感じです。場所に関していうと、別々の2人が同じ証言をしていることから、上記の場所でほぼ間違いないと思います。
ここまで読んで
なぜあれほど大きなものが沈んだのに海図に険悪地の記号がないのか。
と思った人もいるでしょう。一応それに対する弁明もあります。
先日、海上保安庁に海図の険悪地に対する質問をいくつかし、回答をもらいました。
詳細はまた別記事に書きますが、頂いた資料や回答から察するに、この周辺の海底調査の精度は私が思っていたほど良くないようなのです。
以前ご紹介した険悪地のほとんどは平成20年以降に見つかったもので、その前の調査が昭和30年代である海域もいくつかありました。
そういう訳で、場所によっては未だに新規の調査が行われておらず、昭和30年代の紐で水深を測っていた時代の情報が海図に載っているということもあり得ます。(そこまで可能性の高い話だとは言えませんが。)
そして、その平成20年以降の調査に使われた機材もいわゆる「シングルビーム」と呼ばれる比較的旧式のもので、物体が砂に埋もれていた場合には検出することが難しく、また、直下の水深しか測れないため、調査船の航路によっては大きな物体でもスルーされる可能性があります。水深が浅ければなおさらです。
まぁ、ただ単に引き揚げられたからもう無いんだという可能性も十分にありますが・・・
しかし、今のところ引き上げられたという話が残ってないのです。
あれほどの機体が揚がれば一時、残骸が近くの漁港に置かれたりなどして話題になるか、数日はかかる作業の様子を付近の住民の誰かが目撃しているはずです。現場の近くで25歳まで農業をしていた友人の祖父も引き揚げられたという話は聞いたことがないということでした。
この資料の少なさ、知る人の少なさから、なんだかそのまんま放って置かれているような気もしますね。
まぁ、とにかくここも実際に湖底を見てみないと本当のことがわかりません。
今回、非常に貴重な証言を得ることができ、調査に大幅な進展がありました。
個人のレベルでできることはそう多くないので時間はかかりますが、少しづつ、ゆっくりと調査をすすめていきたいと思います。
~続く~
ジムニーja11の整備。~マフラー、ショック交換~
今年の3月にジムニーja11のマフラー、ショックアブゾーバー、その他ゴムブッシュの交換を行ったので今回はそれについてです。
平成2年製、ja11の1型です。
2年間の車検に加えて、天井の内張りの張り替え、車体の再塗装、発電機のオーバーホールなどが付いて40万円でした。
走行距離は15万km。(もしかしたら25万kmかも・・・)
神戸の車屋さんで購入した後、自走で帰って来たのですが、納車直後は40km/hで早くもエンジンが逝きそうな音がして、常に車体の底からよくわからない異音と激しい振動が響く...店の人に「70km/h以上出すと壊れます。」と言われただけあってとにかくヤバい車でした。
今回の部品交換を始め、様々な整備をやってみた結果、今ではだいぶ状態が良くなり走行中の車内もずいぶん静かになりました。その気になれば130km/hくらいは出そうです。100km/h巡行もできます。
今回はそのマフラーとショックの交換について書こうと思います。しかし、これら一連の作業はブログを始める前に行ったということもあり写真をろくに撮っておらず、それ故詳しい手順の説明が出来ません。
部品交換の様子というか、結果だけでも誰かの参考になればと思います。
まずはショックとゴムブッシュの交換について。
今回選択したショックはこれです。
リア用
MONROE ( モンロー ) ショックアブソーバー 【オリジナル】 リア用 (2本セット) スズキ ジムニー 11/71 32207MM 【正規輸入品】
- 出版社/メーカー: モンロー(Monroe)
- 発売日: 2012/12/01
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フロント用
MONROE ( モンロー ) ショックアブソーバー 【オリジナル】 フロント用 (2本1セット) スズキ ジムニー 11/71 31029MM 【正規輸入品】
- 出版社/メーカー: モンロー(Monroe)
- 発売日: 2012/12/01
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また、ゴムブッシュとは...
こんな感じのゴムパーツで板バネの接続部分、マフラーやショックの固定部分などに使われています。そんな頻繁に交換するものではありませんが、今回の車両は28年落ちということで相当に古いので交換しました。
ゴムブッシュはまだ純正パーツが買えます。
そんなこんなで作業開始。
タイヤを外した後、車軸を持ち上げながら板バネの固定部分を外し、ショック→ブッシュという順番で部品を交換、という流れだったのですが、これが地獄でした....
↓唯一の作業風景写真。
特にブッシュ交換。部品がいちいち死んでいました。特に後輪の板バネ部分は最悪。
もうね...ブッシュが無い。風化して無くなっていたんです。おまけにその亡骸が石みたいにガチガチになって固着して取れません。
28年間いつでも一緒にいた彼らですからよほど別れが惜しいのでしょう。
最終的に細いノコギリでゴムを切ってくりぬいて、残った細かいのはバーナーで焼き尽くすというド素人DIYでなんとか切り抜けました。1つ交換するだけで8時間...
板バネも一度外すと再度取り付ける時に中々ネジ穴が合わず....ジャッキを噛ませて曲げたりしながらどうにかハンマーで叩いてねじ込みました。
外したショックがこれです。この2本は同じ部品です。
なんとこのショック、自力で元の長さに戻るという仕事を完全に放棄しています!!!
今までよくこれで走ってこれたなぁ...
ショックとゴムブッシュ交換の効果としては、
- 車高が高くなった。(元の高さに戻った)
- 乗り心地がよくなった。
- 走行時の騒音、振動が減った。
という感じでした。
続いて、マフラーの交換。
今回はフロントパイプも交換しました。
こんな感じで作業を行いました。
選んだマフラーはこれです。
HST/辻鐵工所 マフラー 096-68 スズキ ジムニー JA11C.JA11V(ターボ) 1990年03月~1995年11月 096-68
- 出版社/メーカー: HST(辻鐵工所)
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純正タイプのステンレスマフラーです。
純正よりも若干音が大きくなりますが、気になるほどではありません。(それ以上にエンジンがうるさいから)
純正よりも圧倒的に軽く、そして自動車のマフラーにしてはとても安い。
なんと8000円で買えました。品質も非常に良いです。
それとフロントパイプはこれ。
ジムニー スープアップ フロントパイプ 42.7φ JA11 ※個別送料有商品 価格:12,236円 |
触媒がついていないタイプのものですが、ja11の1型は触媒無しでも車検に通るとのこと。こちらも純正に比べて重量が軽く、抜けがよいです。
並べてみました。
当然ですが、無加工で付きます。
ガスケットもあわせて新品に交換しましょう。
足回りよりは比較的楽でしたが、それでもボルトが固着している箇所があり苦労しました。一番辛かったのは、マフラーを固定するボルトが外れる時にネジ穴を削り取りながら出てきたことですね.....新品のボルトに交換したらなんとか固定出来ましたが...
それと、マフラーの数ヵ所にアースを設けてみました。排気のススがマフラー内部にこびりつきにくくする為です。どれほど効果があるかは微妙な所ですが、とりあえず...
アース線は自作しました。
マフラー交換の交換としては、
- 振動が減った。
- 排気の抜けが良くなりパワーが上がった。
みたいな感じです。
フロントパイプ、マフラー共にかなり劣化していたので新品に交換できて良かったです。
以上でja11のマフラーと足回りの交換は終わりです。
交換後半年が経ちましたがいずれの部品にも不具合などは一切なく、しっかり仕事をしてくれています。
作業難易度も個人でできる範囲ですのでja11ユーザーのみなさん、ご検討されてみてはいかがでしょうか。
~完~
中海に沈んだ海軍機たち。
こんにちは。
一式陸攻の事を調べ始めてから数ヶ月がたちました。
akiyuki2119067018.hatenablog.com
まさか近所の湖に過去に爆撃機が落ちたなんてそれまでは夢にも思いませんでした。
まぁ、それはさて置いて、ここ数か月の間に、インターネットや郷土の歴史資料、基地の関係者や海軍OBの方々の体験談などを通して色々なことを知りました。
その多くは私の知らない話だったので大変勉強になりました。
こういう事実を知っていくことで同じ場所であっても見る目が変わってきます。
早速本題に入りますが、ここ数ヶ月で見聞きした資料や証言から、
ということが分かりました。
訓練中の事故や、戦後の機体処分など様々な理由でこの周辺にはたくさんの飛行機が墜落、あるいは不時着し、海の底へと沈んだらしいのです。
しかし、それらが具体的にどこに落ちたのか、そしてその後どうなったのか等のことは曖昧で記録に残っていません。
なので今回はそれらの記録と、海図とを照らし合わせて色々と考えてみたいと思います。
akiyuki2119067018.hatenablog.com
今回、お話を聞かせてくださった自衛隊OBの方のホームページにこれらが詳しくまとめられています。ぜひご参照ください。
http://navy5532.com/kataribenosekimu.new.html
ここを参考にしながら、海図の険悪地と照らし合わせていくつか紹介します。
01:離陸に失敗した「銀河」が中海に墜落。
これは訓練中の事故だそうです。
「西側(中海側)へ離陸したかと思ったら上昇せず、そのまま二回ほど左に小さく旋回ながら中海に墜落した」という証言があります。
(海上保安庁刊行 W1174)
海図があるので見てみましょう。画像は旧滑走路の画像を海岸線に沿って海図と合成したものです。
東西にのびる白っぽい滑走路、(第一滑走路と資料にはあります)その西側の赤まるを見てください。「#」の記号があります。ちょうど左に旋回したような位置です。
近くまで行ってみました。
海図を見れば分かるかと思いますが、この「#」の位置はちょうど航路誘導のための浮標の真ん中にあるのです。そうなると遊泳や船の停泊は禁止。許可なしに捜索はできません。
まぁ、泳いで行ったら死ぬような距離ですが。
ズームしてギリギリ浮標が撮れました。
この浮標の真ん中には何かが落ちてます。
02:「彗星」が日本海側へ墜落。
これも訓練中の事故だということです。
美保湾へ向けて離陸した単発複座の艦上爆撃機、「彗星」が黒煙を噴きながら日本海に墜落したとされています。
日本海側の海図についても先日新たに購入しましたので、見てみましょう。
(海上保安庁刊行 W116)
こちらも海図と旧滑走路を合成してみました。
四本あるうちの右肩上がりに伸びる黒っぽい第二滑走路、この延長線上にも「#」の記号が多数見られます。ちょうどいけすのある場所です。
うーん、これも偶然でしょうか。
この周辺は漁礁がたくさんありますが険悪地の記号があるのは唯一ここだけです。
一体これらは何なのでしょう......
03:高射砲に撃たれた米軍機が島根半島沖に墜落。
戦時中、島根半島の高尾山には8門の高射砲が配備され、終戦間際まで隠蔽されていたと言われています。
それらが終戦間際に美保湾上空に米軍の飛行艇(双発のマーチン型)が飛来した際、これに対して一斉射撃を行い、被弾した飛行艇は島根半島北方海域に着水したそうです。
その後、その上空を飛来した同型機が乗員を収容し、被弾機を水没させて退去したということが語り継がれているのですが、資料も少なく、詳細は一切不明です。
これも海図に載っている範囲内の話です。
(海上保安庁刊行 W116)
この海域にみられる「#」の記号は1つ。高尾山の北、1400mくらいの沖合にあります。
この周囲の険悪地はこの場所だけです。
これは結構有名な話だと思います。
これについては搭乗員の方が書かれた手記「最後の飛行艇」という本に詳しく書いてあります。
日本海軍の傑作飛行艇である二式大艇(詳細は割愛)は全部で167機ほど製造されましたが終戦後、作戦行動が可能であった機体はわずか3機だけだったそうです。そのうちの一機が香川県にある詫間基地への移動中に中海に着陸し、搭載機銃による銃撃によって海没処分されています。当時、処分の様子は付近の住民も多数見守っていたそうです。
本によると安来市西方の湖上に一晩停泊したのち処分にかかった、とあります。
また、「安来の郵便局に事情を説明して」という一文があることから停泊した場所は安来市内の郵便局に近い場所だったのではないかと推測できます。
最終的にどこで処分を行ったかという詳細は書かれておらず、一切不明なのですが、付近の沿岸には水田が広がり、市街地からは離れた場所だったということです。本には停泊位置から移動したという記述はありません。
当初は取り外した機銃を岸に据え、そこから撃とうとしたそうですが、風で飛行機の向きが変わってしまったため、漁船を借りて飛行機の真横に移動し、そこから撃ったということです。燃料タンクに引火した飛行挺は激しく燃えながら沈んでいったと記載があります。
また、二式大艇の全高はWikipediaによると9.15m。本には最終的には尾翼も沈んで見えなくなったとあるので、その場所の水深は7~9m程度はあったのではないでしょうか。機銃の射程や命中させることを考えると岸からはそこまで離れていないと思います。
以上の情報をまとめると
- 処分前夜、安来市の西方に停泊していた。
- その付近には郵便局がある。
- 海没処分現場は市街地から遠く離れた場所で、沿岸には水田が広がっている。
- 沈んでいる場所は岸からさほど離れておらず、水深は7~9m程度(予想)。
という感じになりますね。
検証してみましょう。
家に干拓計画の地図がありました。1960年ごろの地図なので終戦直後とは異なる点が若干あるかと思いますが、他に無いのでこれでやります。
これで当時の土地利用の状況を知ることができます。
この地図と海図を照らし合わせます。
とりあえず、まずは海底の「#」を見ていきましょう。大きな物が沈んでいれば海図に険悪地として載っている可能性が高いです。
(逆にこれが無い場合はもうどうしようもありません。)
海図に載っている範囲で確認できる「#」の記号は5つです。
それぞれに番号をふっています。
(海上保安庁刊行 W1174)
まず、3、4について、ここは安来港です。
(海上保安庁刊行 W1174)
ここは市街地からは割と近い位置にあります。
護岸が埋め立てられ、昔と今とでは地形が変わっていますね。
現在、水田は見当たりませんが昔はあったことが地図から読み取れました。郵便局もあります。「#」の場所も中心市街地からは微妙に西にあります。
かなりの好条件に思えますが、水深が3~4mしかありません。
仮に戦後70年の間に浅くなったとしても、5mも浅くなるとは思えません。
実際に行ってみました。
こんな場所です。
ちなみにここが安来郵便局。
昭和15年の時点で既にここにあったことから、おそらく基地に電報を送るため立ち寄った「安来の郵便局」というのはここだったのではないかと思います。
水深と市街地との距離から考えて、ここは違うように思います。
続いて2について。ここはどちらかと言うと安来市の東側です。
そして岸からは遠すぎるように思います。こちらも水深が6mしかありません。
(2つを1つにまとめてしまっています。)
これもおそらく違うでしょう。
最後は1について。ここは鳥取県彦名町の埋め立て地の沖合いで、水深8.8m。
埋め立て前の沿岸は水田だったようです。ここは安来市の対岸でやや西より。北北西といった具合でしょうか。
#の場所は埋め立て前の海岸線からは約1km。岸から機銃で撃つにはちょうどよさそうな位置に思えます。
ここも実際に行ってみました。
彦名干拓地。現在、旧沿岸には耕作放棄された水田が広がっています。市街地からは遠く、家もまばらです。
ちょうどここからまっすぐに200mほどいくと例の「#」がある地点に行けます。
対岸に見えるのが安来市です。
ここは水深や沿岸の水田などは条件に合致していますが、安来市から離れすぎているのが気になります。
もし、この場所で処理を行ったのなら安来市沿岸で停泊した後、処理のため対岸まで移動したということになるのですが、それを裏付ける証拠は一切ありません。
また、祖父がこのあたりの出身(終戦当時は小学校3年生)ですが、こんな話は一切知らないし、聞いたこともないとのこと。
米子市の戦争資料にも二式大艇が云々という記載は一切見られません。
また、この二式大艇が紹介される時には毎回のように
「島根県の中海に海没処分された。」という書かれ方をされていることから少なくとも島根県側なのかなと思います。
上記の2箇所よりは好条件に思えますが、安来市から離れすぎていることと、鳥取県内であるという理由でここではないように思います。
う~ん。どれもダメですね。
そこで次は海図の記号関係なしに条件に合う場所を安来市周辺に絞っていくつか探してみました。
現在の地形についてはこの埋め込みのマップをご参照ください。
まず、ありそうだと思ったのはこの付近。
現在の「荒島駅」の近くの沿岸部です。安来市の西方にあり、沿岸には水田が広がっています。
海図がこれです。
(海上保安庁刊行 W1174)
水深は5~6m程度で「#」の記号などは特にありません。
実際に行ってみました。
割とそれっぽい場所にありますね。
ただ少し、水深が足りないように思います。
もう一つあります。それがこちら。
安来市の西端です。中心部から少し離れすぎとも思いますが水田などの条件に合致している場所です。
この緑の部分は埋め立て予定地で、現在はこの地図とそっくりそのままに埋め立てられてしまっています。
ちなみに海図はこれ。
(海上保安庁刊行 W1174)
現在埋め立てられている場所の元の水深は今となってはもう分かりませんが、この周辺全域が水深2~3m程度であることを考慮すると恐らく同じような深さだったと思います。
これでは余りにも浅すぎますね。
一時はここが私の中で最有力候補だったのですがこの水深を考えると可能性はだいぶ低いと言わざるを得ません。
以上いくつか候補を紹介しましたが、納得のできる場所は一つもありませんでした。
そもそも安来市付近で処分したのではなく、どこか遠くへ移動したのかもしれません...
とにかく一切不明です。
これは安来市の戦争記録などを参照してみる必要がありそうです。(載ってるかは微妙ですが。)
以上で紹介は終わりです。
墜落機と海図の険悪地、私にはこれらが何か関係がありそうだと思えてなりません。
その他にも戦後に事故で大破した占領軍のスピットファイアを基地周辺に埋めた等の興味深い話はまだまだありますが、また別の機会に回します。
~続く~
04:一式陸攻を探す旅。~湖底の険悪地~
こんにちは。
8月も終盤に差し掛かり、海水浴シーズンも終わってしまいましたね。
今回は2度目の探索です。
akiyuki2119067018.hatenablog.com
前回は一体どの方角に泳いでいるのか、岸から何mの場所にいるのかなどが全く把握できませんでした。
その対抗策として今回は.....スマホを持って泳ぎます。
家電量販店にスマホの防水ケースが売っていました。
水中には入れるなと書いてありましたが、それなりの防水規格に合格しているものらしいです。もともとスマホのほうも30cm程度の防水性能があるので多分大丈夫。
結果からいうと、まったく問題ありませんでした。
緯度、経度を表示してくれるGPSアプリを使って狙ったポイントに行こうと思います。
場所は前回の記事でも紹介したこの浅瀬。
(海上保安庁刊行 W1174)
今回の目的はこの浅瀬の底がどうなっているのかということと、湖底の掘削範囲外である旧海岸線から1km地点まで泳いでたどりつけるかという検証です。
台風が去った翌々日の日曜日。運よくこの日は波がなく泳ぎやすそう。
少なくとも前回よりは水がきれいです。
装備を固め、いざ入水。
こういう海水浴場でない場所を長時間泳ぐときは絶対に2人以上で、なるべくウエットスーツ生地の長袖、長ズボンで泳ぎましょう。小さい頃なんかはライフジャケット着て泳いでました。
GPSアプリと魚探を頼りに海図から測った座標を目指して泳ぎます。
相変わらず水は汚いです。透明度は2mくらい。自分の足の先がようやく見えるくらいです。
ミズクラゲがいっぱいいます。
ミズクラゲに刺されたという話はめったに聞きませんが、一応毒があるようです。
こういう時も長袖、長ズボンだと安心です。
コンパスで方位を見ながら、ひたすら南西に向かって泳ぎます。
岸から150mくらいの位置から急に水深が深くなりました。掘削範囲に入ったのです。
(海上保安庁刊行 W1174)
そのまま泳ぐこと約20分。水深は再び6mへ。どうやら例の浅瀬に乗ったようです。
潜ってみると湖底はただの砂。湖底付近は海水が流れていて、所々茶色がかっています。生き物も少なく、まっさらな砂地です。
泳いでる様子。
水が濁っているため、海面付近からでは底が全く見えません。これでは探しようがないですね・・・
その後、旧海岸線から1kmの地点を目指しましたが、潮に流されて目的の位置まで到達できず。気温が上がり波も出てきたのでそこで引き返しました。
帰宅後、あの現象の起きた場所の座標をメモしておいたので海図に照らし合わせてみました。
(海上保安庁刊行 W1174)
+の印をつけた場所がその位置です。スマホが安物なのでGPSの座標に多少ズレがあるかとは思いますが大体この辺り。旧海岸線からは750m、証言の通り不時着を目撃した漁師さんの家のほぼ真正面の水深10mの地点です。
湖底の様子を確認しようにも10mも水深があるとなれば素潜りでは厳しそうです。
それはそうと、以前から海図を見るたびに気になっていましたがこの#の記号は何なのでしょう。
(海上保安庁刊行 W1174)
少し調べてみるとこの記号は険悪地というものを示す記号だと分かりました。。隣の()内の数字はその水深です。
険悪地とは何かというと・・・
海底に存在する、コンクリート塊、沈木、銅材、その他錨泊、底引きなどの漁業に障害となる、異質物が存在する地点又は区域。
ということらしいです。
これは怪しい・・・。
(海上保安庁刊行 W1174)
この「#」の場所は先ほど印をつけた場所と近く、当時不時着を目撃した漁師さんの自宅のほぼ正面で、旧海岸線から約750mの地点。水深6mの2つの浅瀬に挟まれており、この物体がある場所の水深は12.4m。
矢印が使用したと思われる滑走路、赤い星印が目撃場所、ピンが険悪地です。
どうでしょうか。何も関係のないただのゴミという可能性も捨てきれませんが、それにしても場所が良すぎます。
しかし、水深が12.4mもあるというのが少し気になりますね。
ここの水深は元々6m程度なので12.4mのこの場所はほぼ確実に掘削されて水深が深くなった地点です。(掘削地点には無いというのが当初の予想でした。)
「砂を掘ったのが原因で山のようになって残った浅瀬が崩れて下に落ちた。」とすればなんとなく説明がつきますが・・・
一体これは何なのでしょうか??一式陸攻なのか、それとも冷蔵庫などの粗大ゴミか...
そこで、この険悪地の記号について、海図を作成した海上保安庁に聞いてみました。
すると、いくつかの情報とともに水深測定の記録用紙の写真を送ってくれました。
(諸事情あって、ここの画像は私が書いた模写です。)
この茶柱みたいな棒が例の物体を指します。これではよく分かりませんね・・・
近年海底調査で大活躍しているサイドスキャンソナーのような機材はこの海域の測定には使用しておらず、海保でもこれ以上の情報は持っていないということです。
サイドスキャンソナー(海底面状況探査) | 地形・地質調査 | 沿岸海洋調査株式会社
この物体は高さが80cm程度であるそうです。
飛行機にしては小さすぎますが、この辺りはかなりの深さまでずっと砂地で、さらに砂の掘削のためにかなりの量の砂が動いています。それを考慮すれば物体の大部分が砂に埋もれていたとしても不思議ではありません。
実際、平成4年に鹿児島県西部の吹上浜で引き揚げられた零式水上偵察機は発見当初、このように砂に埋もれてしまっていたそうです。
これなら高さ80㎝といってもありえなくもないような...
とはいってもまぁ、たったこれだけの情報では確定するには至りません。
こればっかりは実際に現地に行って、湖底を見てみるまではこれが一式陸攻なのか、それともただの粗大ゴミなのか判断することができません。
しかし、水深12mまでどうやって行くか、湖底をどうやって見るか、それが非常に難しいのです・・・・・
~続く~
タウンメイトを格好よくしたい!!!
こんにちは。
先月、15年の長い眠りから目を覚まし、再び我が家で元気に走ってるタウンメイト2号ですが、
akiyuki2119067018.hatenablog.com
タイヤはボロボロのツルツル、塗装も色あせていて、みすぼらしいです。こういうのも嫌いじゃありませんが、せっかくレストアしたのだから見た目くらいは変えたい!!あとタイヤも!!
ということでタイヤの交換と塗装をしました。
買ったタイヤはこれ。
MICHELIN(ミシュラン)バイクタイヤ M35 前後輪共用 2.25-17 38P REINF チューブタイプ(TT) 869590 二輪 オートバイ用
- 出版社/メーカー: MICHELIN(ミシュラン)
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IRC(アイアールシー)井上ゴムバイクタイヤチューブ 2.25:2.50*60/100*70/90-17 バルブ形状:TR4 リム径:17インチ 25955B 二輪 オートバイ用
- 出版社/メーカー: IRC(アイアールシー)
- メディア: Automotive
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一本2000円でした。価格の割にはかなりの高品質!!さすがミシュラン。
チューブやバントも買って合計6000円程度。(これで所持金が尽きました...)
タウンメイト50のタイヤ規格はインチ表示で前後ともに2.25-17というものを買えばいいです。リム径が1.4のベンリィは2.5-17を履いてたりしますけどタウンメイトはリム径が1.2なのであまりオススメしません。
(80ccのメイトはリアタイヤのリム径が1.4なので2.5-17を履いてます。)
なにせ初めてやったものですから大変でした。
もう使わないだろうということでタイヤを切るという暴挙にでる。(ワイヤーが仕込んであって結局取れなかった。)
よくもまぁこれで走れたなってくらいタイヤがボロボロ。あと、すごく臭い。腐ったエビみたいな臭いがします。
タイヤが外れたらリムの錆を落とします。
このように、ドリルの先端にワイヤーブラシをつけて削ると便利です。
↓こういうやつですね。
リムバンドをつけて(これがないとパンクする)、
DUNLOP(ダンロップ)バイク用リムバンド 16-17 バンド幅:16mm ゴム厚:1.0mm リム径:17インチ バルブ穴センター 151537 二輪 オートバイ用
- 出版社/メーカー: ダンロップ(Dunlop)
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あとは気合いで組む。
タイヤをつけるだけで2時間くらいかかりました。
終わったと思いきや、何とリアタイヤに空気を入れてもなぜか抜けてしまう...
どうやらパンクしてるようです...
面倒なのでこれを使いました。
Holts(ホルツ) パンク修理剤 タイヤウェルド (1000cc~2500ccまで) MH763 [HTRC2.1]
- 出版社/メーカー: Holts(ホルツ)
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車のパンク修理剤。本来はチューブレスタイヤ用ですが多分チューブタイヤにも使えるでしょう。
1回目、タイヤの空気を入れたまま使用し、失敗。逆流してきました。
この後、何度か噴射すると穴がふさがりタイヤ復活!!
穴がだいぶ小さかったようで助かりました。
次は塗装です。
まず、塗装剥離剤を車体に塗ります。劇薬なので皮膚につかないように注意してください。
塗装がブヨブヨのワカメみたいになって剥がれます。これが愛車にかかったらと思うと恐ろしい.......
塗装無しもかっこいいな...
。
昔のロケットみたい。
大体取れたら良い、くらいな感じで塗装を剥がしてます。剥がさなくても普通に塗れます。
各所にマスキングをして、
サビ止め効果付きの下塗り剤を塗ります。
私が使ったのは一本400円の安物でしたが、十分な仕事をしてくれました。
今回塗装に選んだ色はタミヤのダークイエロー。
タミヤスプレー No.03 TS-3 ダークイエロー 85003 【HTRC 2.1】
- 出版社/メーカー: 田宮模型
- 発売日: 1983/11/10
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ドイツ軍のタイガー戦車などでお馴染みの色です。
タウンメイトは全体的に「堅牢」って感じでメーター回りなんかもゴツく、ドライブシャフト駆動でエンジン音も50ccらしからぬ音がします。
なので、外装部品を一切変えないまま色だけ塗り替える場合、ミリタリー路線が一番自然だと思いました。また、オリーブドラブ(自衛隊の色)だと結構ありきたりなのであえてこの色に。
今後錆びたり、汚れたり、塗装が剥げたりした場合でもミリタリー仕様なら味になるかなっていうのもあります。
下地処理をきちんとしたので色の乗りがいいです。
これは期待大。
ウインカーも塗ります。
仕上げにクリアを吹きます。これは一本200円の安物。
他の商品は高いです。一本1200円くらいする。
この程度の塗装に吹くなら安物でもそんなに差はないと思います。ミリタリー塗装なので多少汚くてもいいんです。
部品を組み直します。ボルトやネジを丁寧にしっかり締める、これが大事。
その結果...
「タウンメイト、乾燥地仕様」って感じでいいですね~!!!
予想通りこの色は当たりでした。
筆で塗ったフロントフェンダーの色が若干濃いのが気になる...
その後、レッグシートをつけて完成!!!
随分、印象が変わりましたね。
まだ何も文字などを入れていないので市販カラーみたいな感じですが、ここから色々装飾を施して個性を出していこうと思います。
タイヤはまだ慣れてないせいかギクシャクしてますね。走ってるうちに直るんでしょうか?
ということで今回はここまでです。
~完~